序章
クレプサンミア
序章
「姫様! ここはもう持ちません! どうか一刻も早く脱出をしてくだされ」
姫、と呼ばれた金髪碧眼の細身の少女、アンヌフローラは、宵闇の中、火の手の上がる城下を悲しそうに見下ろしていた。
「ユージェン」
「ハッ」
ユージェンと呼ばれた老人は、石畳に膝を付いている。
「お父様はどうなさいましたか……」
彼女はもう、十日以上も父に会っていなかった。
「ハッ……、マティアス殿下は、先日の、ジルベルスタイン平原に置ける合戦で……」
彼の言葉は、そこで勢いをなくしてしまう。
「……お亡くなりになられたのね」
「……御意」
老人は腹の底から声をひねり出した。
しばらくの間、悲しげな沈黙が流れた。幼い頃に病気で母を失った彼女にとって、父マティアスは唯一の肉親だった。
「……そう。脱出と言うからには、行く先に当てはあるのね?」
「ハッ。姫様には大変長旅で恐れ入りますが、ヴァルター帝国の首都ヴァルテックまでご足労願い――」
長々と丁寧に申し立てるユージェンを、アンヌフローラは軽く手を挙げ遮った。
「ヴァルター帝国の帝王、ローラント陛下は大変優しく、誠実な御方だとお父様が申されていましたね」
「御意」
「ユージェン。直ちに支度をなさい。これよりヴァルターへ向かいます」
彼女は毅然として振り返ったが、その瞳には雫が潤んでいた。
「恐れながら姫様。我等の支度はすでに整っております」
「そう。それでは行きましょう。あなた方を待たせては悪いものね」
「姫様」
彼女は言うと、何も持たず部屋を出た。
彼女と擦れ違いに、召使達が部屋へと入っていった。アンヌフローラの荷物を纏めるために。
「ドラゴンだ!」
まだ夜も明けぬ空の下、カンテラの明かりで赤く塗装された不気味な林道で、アンヌフローラに追従する数十名の部隊の誰かが叫んでいた。
その声と時を同じくして、上空を巨大な何かが風を切る音と共に通り過ぎた。
馬車に乗車していたアンヌフローラは、血相を変えて入ってきた家臣のユージェンに、半ば驚きを隠せずにいた。
「ユージェン。そんなに慌ててどうしたのです」
「姫様、なにとぞご無礼かと存じますが、どうかこちらへ」
そう言う彼は、彼女の返事など聞かずに力ずくで彼女を引っ張り出した。
「ユージェン。痛いです」
彼女が悲鳴を上げたが、それでも老人は手を離さなかった。
「どうか、どうか、こちらへ」
「お待ちなさい、ユージェン。……ユージェン! 臣下を置いてどこに行こうと言うのです!」
彼女の悲鳴は、もはや叫び声に変わっていた。それでも、老人は自身が仕える姫君の腕を放さなかった。
それをどこか凛々しい顔つきで見送る、これまで追従してきた家臣の者達。
林の奥へ遠ざかる彼女は、家臣達の居るであろう方向から、人ではない、けたたましいの雄叫び声と、おそらく神術によるであろう爆音が鳴り響くの聞いた……。
僅かだが空が明るくなっていた。夜明けはもうすぐだろう。
アンヌフローラは、腕を引っ張られて歩いている時間を、遥か永くに感じていた。頭がぼんやりとしていたが、それでも遠くの人の声を聞き、永い時間の終わりを知った。
「いたぞ! こっちだー!」
聞き覚えのない男の声だ。
声に驚いたアンヌフローラは、声のした方向へと振り向こうとしたが、側に居た家臣に思いっきり木に押し付けられ、そちらを完全には見れなかった。
だが、押し付けられる瞬間、木々の間に馬に騎乗した人影を目にした気がした。
ユージェンが物凄い形相で睨んでくる。
「姫様。このまま日の昇る方角へ行きますとアーロン山の麓に辿り着きます、そのアーロン山を越えればヴァルター領の村、ドーブールがございます」
「ユージェン、痛い……です」
彼女を押し付ける両腕は、尋常ではない力が篭っていた。
「良いですか、姫様! どうか必ず、無事にヴァルター領へ辿り着いてくだされ。残していった我等のためにも」
「残していく、ってユージェン、どうしたの?」
さきほどからの家臣の奇行に、彼女は混乱していた。
その混乱の矢先に、馬の蹄の音が慌しく近づいてくる。
「姫様! どうかお逃げください!」
ユージェンはそう叫び、剣を抜刀し、振りかぶった。
馬の嘶く音が聞こえ、何かが倒れる音がした。
ユージェンの抜刀で、目に手を立てて目を覆っていたアンヌフローラは、指の間からちらりと家臣を覗き見た。そこには、倒れた馬と絶命した人が見て取れた。そして、老人の手に輝く赤く濡れた剣。
「ユージェン!」
「まだいたのか! 早く行くんじゃ!」
「ユージェン、でも!」
興奮した老人は、まるで絵本で見た悪魔のような表情で、血と朝日で輝く、鈍い赤の刀身を振り上げた。
老人はびっくりして後退る彼女に続けて叫ぶ。
「行け!」
彼女は怯えに任せて何度も何度も頷き、そしてよろよろと歩き出した。
「走れ!」
彼女は走った。
これまで城で何不自由なく暮らしてきた彼女は、生まれてこのかた、走る事などほとんど無かった。それでも彼女は走った。
走る彼女の背中を、老人の叱咤の声が追いかけてきていた。
いつしか、彼女を追う声は金属音と爆音に変わっていたが、彼女は一度も止まらず、疲労で気絶するまで走り続けた。
大陸中央の小国、ブルレックが攻め滅ぼされ、亡国の王女が一人落ち延びねばならなかったその頃、ヴァルターとブルレックの境界にある、ドーブールの村のはずれでもまた、小さないざこざが芽生えようとしていた。
ドーブールは森を切り開き、木材の輸出で生計を立てている小さな村で、主に丸太で建築された建造物で構成されている。だがその丸太造りの村のはずれ、南の湿地に紛れるようにして、石の神殿がひっそりと聳えている事を知る者は少ない。
石の柱を幾本も立て連ねただけの小さな建造物。その内部に一人の男が居た。
くたびれた革装束――鎧、靴――に、何故かそれだけ妙に小奇麗な赤のマント。一振りの小振りの剣を腰に携え、首まで伸びた茶髪を生やした頭、そしてその下の顔には怒りの混じった鋭い目つきがあり、隙の無い警戒の視線をあちらこちらに投げている。
「来てやったぞ」
彼は神殿の真ん中に立つと、不満の混じった声を隠そうともせず、憮然として言った。
しかし、彼のその台詞に対して、何も答えは返ってこなかった。ただ、彼の後ろで影がぬっと動く。
気配を察し、振り返り様に剣を抜き構えると、その影を庇うかの如く、彼がもと向いていた場所から声が掛かった。
「わざわざ遥か遠くまでご苦労様です」
「お前が、ここまで、呼んだんだ」
柱の影に佇む人影に、男は一言一言に怒りを乗せて、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「はい、貴方にお頼みしたい事がありまして――」
「――断る」
男は剣を鞘へと戻し、そして、神殿に背を向け歩き出した。
「俺はそれを言いに来たんだ。もう、誰かを犠牲にするような神託はたくさんだ」
「……救って、頂きたいのです」
「何を? 貴様ら神の安泰を、か? 冗談じゃないな」
「一人の女性を、です」
人影は、男の短気に負けぬよう、ただただ根気強く、説明を加えていく。
「で、その女を救うために、今度は何人の生贄が必要なんだ?」
「その女性を救うことが、大勢の人々の安泰に繋がるでしょう」
「……ふん。どうだか」
問答の間も男は歩みを止めず、もう既に神殿から随分と離れていた。だがそれにも負けず柱の影から声は続く。
「……ダスティ。彼女はこのドーブールの西、アーロン山まで来ていて、貴方が一番近い位置にいるのです」
だがダスティと呼ばれた男は、もはやなにも答えなかった。後ろでうごめく"二つ"の気配を知りつつも、彼はただ歩き、遠ざかる。