ツルペン講
それから2週間後の午後。人間世界でいうところの南欧州にある、ルンプー王国の深い温帯落葉樹林は穏やかな静けさに包まれていた。
その森の中に、2ヘクタールほどのぽっかりと開けた農地がある。その中心部には、築数百年も経って大地と徐々に同化し始めている、石造りの平屋建て民家がぽつんと見える。
農地の半分は小麦、大豆、ジャガイモに野菜などが雑然と植えられて、残り半分は桃やリンゴなどの果樹園になっている。果樹の下には大きな鶏……鶏? が、大威張りで闊歩している。一回り小さな鶏(?)も数多くいるようだ。
目を少し転じると農地に隣接する小さな作業小屋で、数体の農作業用のゴーレムが収穫した野菜や果物を仕分けしているのも見える。
その作業を確認するノームが1人いる。
ものすごくボロボロな上着とズボンで、恐らくは50年くらい着潰していると思える年代物である。全身がきれいにムラなく日焼けしていて、短めに切り揃えた白髪がよく映える。しかし、目の周りだけが日焼けしていないのはどういう訳だろうか?
黙々と出荷作業をするゴーレムに、今日の配送先の情報を書いた紙を食べさせた。その後で、地面になぜか大量にいる大蟻をいくつか拾い上げて語り掛けている。
「そうか。昨日は青虫が結構孵化したのか。駆除ご苦労様」
この逆さパンダなノームが蟻につぶやく。どうやら、蟻も使役して農場管理させているようだ。
「さて……あとは森の中のスライムだな。ん?」
1匹の大きなスズメバチが石を投げつけるような速さで飛んできて、ノームの肩に留まった。キチキチと何かを話して、またブン! と重くて鋭い羽音を響かせて森へ一直線に飛んでいく。
「やれやれ……またかよ」
仕事が増えたことに辟易しながら、森の中へ入っていくノーム。
果たして森の中には、石化したクンチ教授の姿があった。驚愕した表情のまま、見事に石化している。
「こらこら食べるんじゃないよ」
石化した教授をせっせとつついて、ズボンや靴を砕いて食べている大きな鶏(?)を、そのノームが無造作に杖を振って追い払っていく。魔法の杖のようだ。
「ほら、これは餌じゃないよ。あっち行け」
遅れてやってきた車ほどの大きさの緑色のスライムも、杖を向けて追いやる。
そして、手馴れた手順で石化解除の術式を詠唱して、杖を教授の体に当てた。こういった事態はよく起きるようだ。
たちまち教授の体中から、水のような液体がドッと溢れて地面に吸い込まれていく。そしてじきに石化が解除された。
「……ぶはっ」
荒い息をして地面にうずくまる教授に、ノームが面倒臭そうに聞く。
「どちら様? 見たところ……偉い先生ぽいけど。迷ったんなら、お帰りはあちらだよ」
森の奥を指差して示す。
「な、ななな、何だね、あの化物はっ」
ようやく口が利けるまで回復した教授が叫んだ。
ノームが無邪気な顔をして笑う。
「ああ……鶏だよ。ちょっと大きくてワイルドだろ。気に食わない奴や、餌になりそうな奴がいたら石にして食べてしまう、ちょっと変り種だよ。肉や卵は結構うまいんだぜ」
「コカトリスを、こ、こここ、こんな森に放し飼いにするなんてっ。何というっ」
教授はまだ叫び続けている。
ノームは一向に気にしていないようで笑ったままである。
「農場警備には最適だろ? 他にも火食いトカゲもいるよ。運が良かったな、奴らに襲われたら、今頃は炭になってて、復元もできなかったよ」
横を見て、指差した。
「ほら、こいつ」
いつの間にか、長さ80センチはあろうかという大きなトカゲが忍び寄っていた。口からチロチロと炎が噴き出ている。
顔面蒼白になった教授が叫ぶのを止めた。命の危険を察したらしい。
「あ、あああの……ツルペン講は、どこかな?」
震える声で、ノームに訊ねるのが精一杯のようになっている。教授もノームだが。
「へえ、仕事の依頼かい? よくここまで辿り着いたね。どこの講にも参加してないのに」
ハーブティーを差し出して、ノームが教授に言った。
「森の薬草と香草、茸を煎じたお茶だよ。どうぞ」
ツルペン講の看板もデスクも何もないので、民家そのまま……な状態の講堂だ。客などほとんど来ないのだろう。応接セットなど考えてもいないようだ。
とりあえず座る場所を確保して、教授を座らせてからお茶を差し出した。コップも百年もの……ぽいようで。
意を決して、お茶を口にする教授。
(おお……意外と香り豊かで、しっかりしたボディを持っているお茶だな。何の香草だろうか?)
ようやく落ち着きを取り戻し、それから、室内を見渡す。
長さ5メートルはあろうかという、本格的な外洋航海用のカヤックが船底を上にしたままデンと室内を占拠している。その横には数枚のサーフボード。天井からは様々な太さのテグスが何十本もぶら下がり、美しいルアーが別の棚に納められている。
奥のほうには、工夫を凝らした芸術品ともいえるフライフィッシング用のフライ(疑似餌)が、いくつもぶら下がっているのが見える。
その他には、工具類をぎっしり収めた大きな棚が目を引く。棚の近くには旧式のディスプレーが2台置いてあり、1つは地元のバラエティー番組を、もう1つは各地の天気予報を映している。
「ピトンが見当たらないな。ケラン君は不在かい? ああ、私はルンプー大学のクンチ・トゥル・プラボ。2週間前に中央イスタナで地質調査をしていた際にお世話になったんだよ」
教授がやっと自己紹介を始めた。
「ああ……そういうことか。なるほどね」
ノームもお茶をすすって、大きくうなずいた。
「私はグラウ・プリ・ハリアー。ここツルペン講の所属だよ。もう1人いてね。ほら、あそこにいるのが3人目、ムカ・アン・ティラム。この3人で全員だよ」
教授も今になってもう1人いることに気づいて、ビクッとする。確かにサーフボードとルアー棚の間にいた。釣り針を砥いでいる。
(うーん……我らノームは気配を消すのが得意だが、消しすぎだろう)
とは、言わない教授であった。
「ケラン君はどこに?」
気を取り直し、つつかれてボロボロにされたズボンと靴の被害状況を確認する。どうやら、リサイクルにも出せそうにない被害状況のようだ。
お茶をすするグラウ。
「んー……まだ帰って来ていないよ。どこかで道草をくっているんだろーな」
「は?」
目が点になる教授。
「あ、ああれから2週間も経っているのだけど」
「よくあることだよ。帰る途中で、素敵な崖を見つけたか、寝心地のいい岩を見つけたか、雪山が呼んじゃったか……」
そう言って、グラウがお茶を飲み干した。
「そのうち帰ってくるよ。先生、お茶が冷めるよ」
「うむむむ……」と腕組みして考え込んでいる教授。
その間に、全く無口なくせに鼻歌を歌っている3人目のムカが、5つ目のフライの釣り針を砥いで巻き終わった。一方のグラウは、巨大なシーカヤックの底面を砥石で砥いでいる。規則正しいシャーシャー音が心地いい。
やがて、作業を見ていた教授が天井からいくつも垂れているフライを取って、その砥ぎ具合を確認した。慎重に触っているつもりなのだが、簡単に指に釣り針が引っかかって切り傷を作る。
「うむむ……すごい切れ味だね」
釣り針から手を離し、今度はサーフボードの底面を触ってみる。
水系の精霊魔法がかかっているようだ。空気中の水分が凝結して水滴が浮き出てきては、ポロンと床に落ちていく。もちろん、鏡のような滑らかさなのだが、サーフィンする進行方向以外の方向でなぞると、とたんにガサガサと抵抗を感じてしまう。
感心する教授。
「おお。どんな砥ぎ方をすればこうなるんだ?」
「へへへ。塗料の分子の流れを揃えてやって、精霊魔法の向きを指定すればこうなるんだよ。あとはちょっとした砥ぎ方のコツだね」
グラウが笑いかけてきた。
「そうか……」
と、教授。
「そうか、そうだな」
何か独りごちている。
そしてグラウに顔を真っ直ぐに向けて、教授が真剣な表情で話し始めた。
「実は、ここへ来たのはね。君たちの砥ぎ師としての能力に関わりを持ちたいと思ったためなんだよ」