北の入り江で海釣り
ムカはセーリング仲間のルルスと共に、グラウたちが熱狂する南海のはるか北――人間世界でいうアラスカ湾の南端にいた。
高緯度のこの海は、夏になると異常に日の長さが延びてくる。遠くに山頂に万年雪を抱いた海岸山脈が、霞みがかって見え、それが低い太陽の陽射しを受けて明るいオレンジ色に輝いている。
グラウたちがいる南の島では、もう夜のバーでの酒盛りが始まっている頃だろう。
この北の海では、夏とはいえ海で泳ぐような物好きはいない。2人とも高水圧対応の防寒防水ジャケットの上下を着ている。そして、波の高さ2、3メートルの『穏やかな』海を、風に帆をはらませながら北東へ疾走していた。
精霊魔法のせいもあって、時速は50キロ程度も出ているだろうか。ズバンズバンと、次々に波を蹴り立ててヨットが進んでいくのは気持ちがいい。
(この疾走感がたまらないよね)
巻き上がる波しぶきにうたれながら、ムカは心底思うのだが……ケランもグラウも1時間もすると、顔を蒼白にしてトイレから出て来れなくなるようで。次からは、いくら誘っても断られてしまう。
「まあ、連中には向いていないということですね」
そう割り切るムカ。
そこへ、船室からルルスが顔を出してきた。
「なあ、ムカ。この先に入り江があるんだが、そこに入って釣りでもするかい?」
「ああ、いいですね。方向はどっちになりますか?」
2人で帆の向きと舵を調整しつつ入り江に到着した頃には、ようやく夕暮れになっていた。今は世界中が赤く輝いている。雪山、うっそうとした大森林、切り立った巨大な絶壁、水面さえも、赤一色に染まっている。
唯一、空だけが夜の訪れを知らせていた。西の輝くような赤から見事なグラデーションを見せて、東の漆黒の闇につながっている。
星はポツポツと見える程度で、空のグラデーションのちょっとしたアクセントになりつつあった。
その絶景に酔いしれながら、ヨットを完全に停止させる。投錨はせずに精霊魔法を使っている。外海とはうって変わって、鏡のように穏やかな海面だ。そこへフライを飛ばす。
この釣りは、見事に装飾されたフライを、その名の通り虫が飛ぶように釣り糸を操って水面上をホップさせる。そのため水中には沈まない。
主に川釣りで見られ、海では普通見かけない……のだが、面白いように次から次にヒットしている。
水面を回遊する魚なので、それほど大きくはない。釣り上げても、これだけの数を食べることは不可能だ。ほとんどの魚を海に返している。
日没までの30分ほどで、2人で50匹は釣り上げただろうか。釣っては海に戻す事を繰り返している。魚の口にできた傷は、ちゃんと法術で治療しているようだ。
やがて一気に世界から光が失せていき、星空の世界になった。
さすがに太公望2人は釣りを終える事にしたようである。海に返さずに捕獲した、大きめの魚10匹ほどをヨットの甲板の上で調理し始めている。
魚の種類や大きさに応じて揚げたり、蒸したり、炭火で魚を焼いて、出来たそばから食べていく。なぜか片手にはたっぷりと注がれた米ワインが。
ルルスが自慢げな顔をして、ムカにそのグラスを見せた。
「2ヶ月前、極東アジアの沿岸を航海したときに美味い地酒の蔵を見つけてね。気に入ったのでまとめ買いしたんだよ」
百銘柄はあるだろうか、ずらりと並んだ地酒が収められたセラーを甲板の上にテレポートさせた。さすがに極東アジアともなると、ノーム語も方言がきつくなって地酒ラベルの表示が読みにくい。
「へえ……確かに魚料理に合いますねえ。では、これなんかどうでしょうか」
ムカがグイと飲み干した。すぐにセラーから新たに1本の地酒を取り出して、ゴプゴプとグラスに注ぐ。
上機嫌でルルスも、ムカと一緒になってセラーの酒を物色する。
「気に入った銘柄があれば、また極東へ行った時に取り寄せるよ」
一応、ムカが念を押した。
「お願いします。でも、あまり高価な酒はやめて下さいね」
「そろそろ、夜釣りの時間になってきたかな?」
ルルスが地酒と魚を楽しみながら、へさきから海面を見る。
「ん……上がってきたようだ」
そう言って確認して、夜釣り用の今度はオモリがついたテグス付きの釣り竿を持ち出してきた。
ムカも竿を垂れる。
「じゃあ、私はここから」
今度も生餌を使わずにルアーを使っているが……それでも、また面白いようにヒットしてくる。やっぱり、ほとんど全部を海に返しているようだ。地酒をグイ飲みして、焼き魚、蒸し魚をパクつく2人の太公望。
「いい夜風ですねえ」
「そうだなあ」
ルンプー大学も夏休みになっていたが、教授の研究室は相変わらず多忙を極めていた。
あれからさらに増えた50万本もの観測パイルからのリアルタイム三次元データの処理に、研究員も学生も休み返上している。
気の毒に感じた教授が連日、昼も夜も差し入れしたり、食事に連れ出したりして労をねぎらっているが……当の教授自身が相当なスケジュールをこなし続けている状況である。それでも元気なところを見ると、研究が楽しいのだろう。
観測から1ヶ月が経過すると、ようやく全体像が浮かび上がってきたようだ。
「先生が危惧した通りの結果になりそうですね」
前回以上にグシャグシャな落書きにしかみえないグラフを研究員と学生が見て、教授に話しかける。
「うん……私の予想以上だよ」
教授が冷静に答え、1人の図書館詰め要員にされた学生に訊ねる。
「月面にある、過去300万年分の観測記録では、この精霊の狂乱状態は記録されていない。その後の文献調査でもなかったかい?」
その学生が進み出た。
「それが、先生……考古学の文献と関連分野の教授にあたってみたところ、過去一度だけ起きた可能性があるそうです」
やや緊張した面持ちで報告し始める。
「2.5億年前、元世界が、まだ1つの超大陸だった頃の話ですが……長さ数千キロに渡って突然大陸が裂けました。その際に大噴火と膨大な量の溶岩を噴出したことが、発掘から確かめられています。我々がいる、この大陸の北極圏に近い山脈や高地は、その際にできたようです。この辺りですね」
学生が指し示した地図を見ると、人間世界では東シベリア地域に該当するようだ。
「うん。スーパープルームだね」
教授がうなずく。
「それに似た現象なのではないかと、私も考え始めているよ。だけど、考古学調査だから、精霊の動きの結果しか分からない。起こる前の動きは誰も知らないんだよ。だから、私としても確信が持てないんだ。図書館に缶詰にして済まなかったね。その考古学情報をレポートにまとめておいてくれないかな」
研究員や学生の顔を見ていきながら、教授が話を続けていく。
「これまでの調査から、精霊がマントル上層部で狂乱状態なのは分かったといえるね。まだ地表面や地殻の精霊群まで影響は及んでいないけれど、それも時間の問題かもしれない」
教授はこの観測データの中間報告を、影響が及びそうな国全てとノーム総会に発表すると話した。そうする事で、さらに多くの研究機関が調査に加わるようになるだろう。
「何が原因なのか、どうすればいいのかが分かるかもしれない。最悪でも、いつこの大陸から逃げ出せばいいのかが分かるだろう。多分、我々だけでは対処できないだろうから、魔法使いの世界や、場合によっては魔法生物世界からの支援も検討しないといけないかもしれないね」
研究員が息を呑む。
「え……あの3姉妹の世界、ですか」
教授がマジメな顔で肯定する。
「うん。相手が示す条件次第だとは思うけどね」
「ノームの首を1億とか?」
学生が思わず聞いたので、教授が笑って腕を組む。
「そうかもね。でも、もし、スーパープルームが起きたら、1億じゃ済まないだろう。確か、2.5億年前のケースでは、原始生物の95%が死滅したそうだから。しばらくは月に移住することになるよ」
ざわつく学生と研究員に、教授がスケジュール表を見ながら話した。
「現状はこういう事だね。では、疲れない程度に休みながら作業を続けて下さい。当番制がいいだろうな。皆もせっかくの夏休み、少しは遊ばないといけないよ」