雪ウサギのヒャッハー
パスチム山脈の鋭鋒が神々しく連なる、標高3000メートル地帯。ここでは5メートル近い粉雪が降り積もっていて、それが朝日に反射して黄金色にまぶしく輝いている。人間世界ではアルプス山脈と呼ばれている。
ツルペン講のあるルンプー王国の東に隣接するこの山脈は、その立地条件の良さからスキーやスノーボード狂達のホームゲレンデである。
標高1000メートル以下の地域は、冬になるとスキー場が数多くオープンになる。シーズン中は数十万人の観光客で賑わうため、ちょっとした観光都市の景観になっている。
が、それも標高3000メートル辺りまでだ。ここまでくると傾斜も急激になり、針葉樹林も混じった深い森になるので上級者しかやってこない。
そんな針葉樹林の木々を避けながら、数名のスキーヤーが2メートル以上もの高さの雪煙を巻き上げながら高速で滑り降りていく。
そんなスキーヤーたちが森の木々の間で見え隠れしているのを、見下ろしている2人のノームがいた。
「おおう。ここでも4メートル近く積もっているじゃないか。雪質もパウダーで初夏にしては上々だな」
ケランがクルタスに笑いかける。クルタスも上機嫌だ。
「ふふふう。オレの読みは大正解だっただろう?」
針葉樹林のはるか上に、人間世界でいう所のマッターホルン、ユングフラウといった4000メートル級の白銀の嶺が連なっている。その白銀の峰の最高峰、傾斜角45度以上のモンブランの急斜面に彼らがいた。
やっと朝焼けが終わったばかりだというのに、もうこんな場所にいる。
新緑に輝く針葉樹林や観光都市は、文字通り下界の絵になって足元に広がっている。先ほどまで木々の間に見え隠れしていたスキーヤーは、そろそろ最寄りの民宿に到着するようだ。減速を始めている。
2人は針葉樹林帯のはるか上、森林限界を超えた先の氷雪の斜面にいた。ここでもスキーはできそうだが、森がないので風が強烈である。積もった雪が風に引きはがされて空中に舞い上がっている。
そのため、2人は雪山登山には欠かせないアイゼンをつま先に装備している。銀色に輝くピッケルを新雪で覆われた急斜面に打ちつけながら、ヒョイヒョイと登っていく。まるで階段でも昇るような気楽さだ。
雑談を交わしながらなので、本当に散歩の途中のような印象すらある。
ノームの身長が1メートルちょっとしかないので、普通だと新雪に埋もれて身動きが取れなくなるはずだが……そこは氷の精霊魔法を使っているのだろう。ちゃんとフワフワな新雪の斜面の上にしっかり立っている。
足跡がついているところを見ると、見かけの重さは数十グラム相当というところか。もちろん、そんな体重では風に吹き飛ばされてしまいかねないが、そこも氷の精霊魔法のおかげで、しっかりと歩くことができているようだ。
登るにつれて傾斜も急になり、足場も悪くなっていく。大きな岩の上にうず高く積もった新雪が行く手を妨げるのであるが、それもノームにとっては全く問題にはならない様子である。
低い跳び箱を飛び越えるような気楽さで、次々に大岩が重なり合う尾根筋を進んでいく。
それが終わると、今度は垂直の氷の絶壁が目の前に立ちふさがった。
しかしノームの2人は、気楽な動きでピッケルを2本取り出した。それを両手で持ち、登山靴のつま先に装着しているサメの歯を数本並べたような形のアイゼンと併せて、ヒョイヒョイと氷の絶壁をよじ登っていく。
命綱は一本も身に着けておらず、氷の精霊を使役して安全を確保しているようである。単に登るだけであれば風の精霊を使って空中を飛べば良いのだが、それでは面白みがないのだろう。あくまで土や氷の精霊だけを使っている。
氷の絶壁の高さは200メートルほどあるだろうか。もっと簡単な登山ルートもあるのに、あえてこのような絶壁を選んでくるあたり彼ららしい。
その絶壁を見てみると、氷の壁が風などで削られてカーテンのひだのように波打っている。岩盤もところどころで露出していて、見事な地層の縞が見られる。
それらを背景にして氷の破片や霜がキラキラと輝きながら舞い上がって、そして舞い落ちていく。そんな様は、見とれるほど美しい。
早くもモンブラン山頂が見えてきた。が、さすがにこの先は頭上に新雪がうず高く積もっている。Pの字のようになっており、数メートルもせり出してこのままでは登れそうもない。
しかし2人の雪ウサギは、平然と強烈なオーバーハングのPの字の真下に、ピッケルを2本しっかりと雪に打ち込んでいく。そのピッケルの上に両足を置いて、そのまま雑談しながら朝食を摂り始めた。
垂直どころか、こちら側に倒れてきているような角度の氷の絶壁である。少し離れて2人を見ると、まるで絶壁を背景にして空中に浮かんで静止しているようにすら見える。
土と氷の精霊魔法に詳しいノームでなければ、このような芸当は不可能だろう。
雑穀パンに、ビン詰めのジャムやら小魚にキャベツぽい野菜を山盛りに乗せて、生卵を上にかけてから香辛料やら塩やら振りかける。
そして、「えい」と火炎系の精霊魔法を発動させて、手の上で調理し始めた。手が炎に包まれているのだが、平気な様子だ。やがて数分もすると、卵と魚が焼けた香ばしい良い匂いが立ち上ってきた。
「でーきた」
ケランとクルタスもほぼ同時に言って、さらに景気づけに蒸留酒を取り出してドバドバとふりかける。酒のいい香りがしてくる。香草の香りがするので、ジン系か。
「じゃあ、精霊の恵みに感謝を捧げ……いただきまーす」
これまた同時に2人が大きな口を開けてパンにかじりつく。盛大にパンくずが舞い上がった。
「うめー」
笑いあう雪ウサギたち。
「やっぱり、いい空気の中で食うと違うなあ。クルタス」
ケランがバクバクとパンを平らげながらクルタスに話しかける。クルタスも屈託ない笑顔で笑う。
「だよなー。こういった場所で食わないと、食事した気にならないよ」
「そうだ。お茶、お茶」
ケランがパンをあっという間に胃袋に収めて、コップを取り出した。
いくつかのハーブや香草を底に押し込んで、斜面の新雪をガッポリさらい取る。で、また同様に火炎系の精霊魔法をかけて、手の上のコップに入った雪を溶かしてお茶にする。たちまちコップの新雪が溶けて沸騰し始めた。相当な火力である。
足元の氷と手の上の炎と、系統の異なる精霊を同時に使役しているのだが、魔法補助の道具などは一切見当たらない。完全に自力でこの相反する魔法を使っているのだろう。さすがノームというところだろうか。
「気圧が低いから、沸騰してもぬるいけど。それがまた良いんだよな」
10分以上かけてじっくりとお茶を煎じていくケラン。にやけた顔が止まらない。クルタスもニヤニヤして同じことをしている。
「そうだなあ。風の精霊を使えば、気圧なんかも簡単に調節できるけどな。そんなことするのは、野暮ってなもんだ」
2人が貼りついている絶壁の場所から見ると、山によって雪の積もり具合が異なり、雪が反射する光の加減も微妙に青や黄色に異なるのが分かる。
太陽も徐々に天空に昇りはじめ、雪の照り返しが次第に激しくなってきた。
「そろそろくるかな」
「そうだな、そろそろだな」
2人がお茶を飲み終えてゴーグルをかけ、ピッケルの紐をしっかりと手首に巻きつけて固定した。陸上短距離走のスタート前の姿勢に似ている。
「お。来たぞ」
斜面の下から、上昇気流が竜巻のようになって湧き上がってきた。粉雪がブアアッと舞い上がってこちらへ迫ってくる。それはあっという間にノームたちのいる場所まで到達して、強力な吹き上げ風となって彼らを包んだ。
「ほうおおおおううう」
奇妙な掛け声をかけて、ノームが上昇気流に乗って空中に浮き上がる。ピッケルを2本両手で持ち、それを足代わりにして「ほいほいほい」と、オーバーハングの斜面を登っていく。どことなく何かの虫がカサカサと天井へ登っているような印象を受ける。
見事にオーバーハングを乗り越えた2人。そのまま上昇気流に乗って、カサカサとピッケルを使って頂上まで辿り着いてしまった。ここでようやく足を雪の上にトスンと下ろして、「いえー」と、手を打ち合って登頂を喜ぶケランとクルタス。
「この最後の逆立ち、スリルがあって面白いんだよな」
2人が同時にパイプを取り出して火をつける。紫煙が上昇気流に乗って、天空高くまで真っ直ぐに吸い上げられるように昇っていく。
「うめー」
「山で吸うパイプは最高だな」
笑いあう雪ウサギ達。タバコを吸って雑談しながら、山頂からの絶景を楽しんでいる。
やがて太陽がさらに高く昇ってくると、上昇気流も落ち着いてきた。雪ウサギ達が風の様子を確認して、にんまりと笑いあう。パイプをしまって、スキー板を取り出して装着し始める。
「さて……メインイベントだ」
エッジの砥ぎ具合を確認するケラン。
「よし。これで寝刃を合わせれば大丈夫だろう」
砥石を取り出して、雪を潤滑剤にして軽く砥ぎ上げる。
「今回は、どのルートで降りようか」
クルタスが山頂から360度見渡して、ルートを物色し始める。
「そうだなー、北東斜面では新雪が多そうな感じだな」
「そうだな。じゃあ、行こうか」
ケランも同意見のようだ。
そして、「ほい」と、声をかけて、落差1000メートルはある山頂からの直滑降を始めた。
自由落下にも似た加速度で、たちまち時速200キロを超える。空気の塊を切り裂く独特の感覚の中、周りの音が一切遮断されていく。視界もどんどん狭まり、氷系精霊魔法で砥がれたスキー板が新雪のわずかな振動を足に伝えてくる。
そのくせ、ちょっと片足を踏み込むと、途端に激しい衝撃が起こって大量の粉雪が巻き上がる。同時に体を完全に雪が包み込んでしまう。
粉雪といえども時速200キロを超える世界では、砂粒のようになる。それらが服や顔に突き刺さっていく。フワフワした粉雪の穏やかさは完全に消し飛んで、今は氷の精霊本来の鋭い凶暴さがダイレクトに感じられる。
ふもとからもしも誰かが2人を見ていたら、雪山の斜面が鋭いナイフで切り裂かれてできるラインが見えているだろう。
その2本のラインは、粉雪を大量に周辺に爆発させるように左右に撒き散らしている。それでもあくまで優美なカーブを描きながら、一筆書きのように一気に形作られていく。
しかしこんな標高では、そんな物好きな観光客は誰もいない。見ているとしたら、モミの高木のてっぺんに留まって辺りを睨んでいるワシか、カモシカぐらいである。
「お」
いくら氷系の精霊魔法を使っていても、ノームの反射速度が鋭くても、突然のアイスバーンに突っ込んでしまう事はよく起きる。その1秒後には、落差20メートルの岸壁の上からジャンプしてしまうことも良くある事だ。
普通なら、ここで風の精霊魔法を発動させて着地の衝撃を和らげるのであるが……この雪ウサギは考えもしないようである。そのまま時速200キロの速度で新雪の斜面に着地する。
新雪どころか根雪まで、着地の衝撃で吹き飛んで盛大に舞い上がっていく。当然ながらモンブランの岩肌にスキー板が激突する。
しかし、そこで大地と氷の精霊を使う魔法が炸裂した。そのまま岩の中にダイビングするように沈み込んでいく。岩肌が液体化したかのようだ。水しぶきは上がっていないが。
ケランの1メートルちょっとの背丈の姿が、完全に岩の中に潜り込んでしまって見えなくなった。
次の瞬間、岩の中から浮き上がってきたケラン。何事もなく岩肌から飛び出て、再び新雪の斜面に復帰した。岩の中を自在に潜ることができるノームならではの滑り方である。
粉雪の積もっている高度は終わりつつあるようだ。今は、重たく湿った夏の雪がうず高く積もっている高度に差し掛かっている。ヤナギや這いマツの潅木が目立つようになり、針葉樹もその黒い姿を見せ始めている。
「ひゃあああっほおおおおううううっ」
飛距離100メートル越えの大ジャンプをもう1つ決めて、再び斜面に着地したケラン。
重いボタン雪をドバアッと爆発させるように撒き散らして、針葉樹林帯へ突っ込んでいく。さすがに速度は時速80キロまで落としたが、それでも超高速のスラロームには変わりがない。
無数に、てんでばらばらに生えている松やトウヒ、モミの大木や幼木の隙間を、鋭く斜面を縫いながら滑り降りていく。風と氷の精霊の加護を受けながらなので、つむじ風のような見た目だ。
しかし当然といえば当然なのだが、ナイフのような鋭いラインをとっても、無数に生えている木々の枝や岩角に容赦なく服が切り裂かれていくのは避けられていない。
この感覚もまた楽しいようで、あえて障壁は最弱ともいえるほど弱めている。
そしてまた、崖っぷちからジャンプ。
「おわ」
今度は落下先が森の上だ。さすがに防御障壁を強めて50メートルほど飛んだ後に、針葉樹林の林冠に突っ込んだ。さらに、見かけの自重を数十グラムにする。
ポーンと針葉樹の森の上をボールのように跳ねた。ガサササッと盛大な音を立てて、それでも防御障壁と精霊魔法で木々にはダメージを与えないようにしている。
そのまま数百メートルほど跳ねて、やっとモミの森のてっぺんで止まった。
「おー。よく跳ねたなあ」
防御障壁を解除してスキー板を足から外したケランが、モミの森の木々の上で大きく背伸びをする。この辺りは、もう標高1000メートル弱になっていた。空気も生暖かく、湿気もかなりある。
「ひゃああああっほおおおおおおおおおうううううっ」
クルタスの狂喜の雄叫びがしたので、その方向を森の木々の上から見る。と、彼も落差20メートルほどの崖っぷちの上から、大量の雪に包まれて空中へ大ジャンプしていた。落下先はもちろん針葉樹林の森の林冠である。
森の木のてっぺんに勢いよく落下して、そのままポーン、ポーンと空中高く数メートルは跳ね上がっていく。そのまま森の木々の上を跳ね回っている。
「ははは。クルタスも来たか」
ケランがゴーグルを外して、バッグの中に入れる。
「ありゃ」と声がして、クルタスが森の中にスポと落ちてしまった。
「あーあ、森の隙間にはまったな」
ケランが笑って、気にせずにモミの木のてっぺんで準備を終える。木の枝に沿って、するすると地面に降り立つ。ここではもう、雪と泥が混じり始めていた。
「夏だからね。まあ、この高度までしか雪は……」
そこへクルタスがスキーで突っ込んできて、急ブレーキをかけて停まった。
枝や落ち葉混じりの泥と雪が、大量にケランに襲い掛かる。が、毎度のことらしく、ケランの防御障壁が作動する。おかげで全て弾き飛ばされて被害は出なかった。
「あ~……面白かった。なあ、ケラン」
全く悪びれずに、クルタスがスキーを外してゴーグルを取る。ケランも笑う。
「ああ、面白かった」
「もう一回いくかい?」
クルタスが目を輝かせて訊ねてきた。ケランもバッグの中身を確認する。
「そうだな。まだ昼飯のパンが残っているからね」
今度は、風の精霊魔法を使った飛行魔法で空中を飛んでいく。ちょっとしたプロペラ機並みの速度である。さっきの山の向かいの、これまた4000メートル峰に向かう。人間世界でいうとグランドジョラス山だ。
ケランが飛行しながら下を見て、残念がる。
「もう、雪が溶け始めたなあ。この滑りで最後だな」
クルタスが笑って答える。
「初夏だからなあ。安定した雪になるには、あと4、5ヶ月待たないとな。しかし、この季節ならではの景色と空気は、それはそれで良いもんだよ」
「ああ」
ケランも同意して、森の下り斜面の先を眺めた。
「これだけの雪が溶け出すから、川はさぞかし騒々しいだろうね。グラウもいるんだろうなあ」