岩の屏風の下で
登場人物の紹介:
●ケラン・ブバス・クルアール:
大地と炎の精霊魔法に精通する砥ぎ師。雪山登山と岩滑降、スキーが大好き。一方で暑いのは大の苦手。
●グラウ・プリ・ハリアー:
大地と水、氷の精霊魔法に精通する砥ぎ師。カヤックとサーフィンが大好き。
●ムカ・アン・ティラム:
大地と風、雷の精霊魔法に精通する砥ぎ師。釣り、セーリングが大好き。
●クンチ・トゥル・プラボ:
伝統工芸講の理事だが、ルンプー大学の教授が本職。大地の精霊の動向調査で有名。
●ウダン・コピアイス:
ドワーフ族。スンガイ金属という会社の専務。
●ワジブ・パクサ:
第十四魔法世界のスナン人材派遣会社の技能開発部長で魔法使い。
●ハラップ・ドゥルマ:
オーガ族の出稼ぎ消防士長。スナン人材派遣会社に所属。
●クルタス・ラル・リンガン:
絶壁スキーヤーで、ケランの友人。
●スハム・メシュ・パス:
岩滑降好きで、ケランの友人。
●グルガシ・プリ・ポトン:
サーファー。グラウの友人。
●ウルス・プリ・ダエラー:
カヤッカー。グラウの友人。
●ルルス・アン・ケサン:
自分のヨットを持つムカの友人。フライフィッシングが好き。
ノームが住む世界にも、世界の屋根とも言われる標高8000メートルを超える巨大な山脈がある。その1峰であるサラフも白い氷と黒い岩でできた巨大な絶壁を有している。絶壁の高さは軽く2500メートルほどあるだろう。人間世界ではヒマラヤ山脈のマナスル峰と呼ばれている高峰だ。
この絶壁の下も標高が高く、夏でもミゾレ混じりの冷たい風がゴウゴウと吹きすさんでいる。
そんな風の中でルンプー大学の調査隊が、地面に測定パイルを打ち込む準備をしていた。絶壁の下にある、まさに猫の額ほどしかない狭くて平たい場所に陣取っている。この調査隊はノーム世界の大学の研究者で構成されているようである。
絶壁の下は崩落地なので大小さまざまな岩塊が転がっている上に、度重なる雪崩の発生によって森林が成立できていない。潅木と草原の世界だ。しかも急傾斜の。
一方、絶壁を見上げると天空まで続くかのような氷と岩の壁が、ほとんど垂直に近い角度でそそり立っている。その氷と雪が太陽に照らされてキラキラと白く輝く。黒みがかった青空との対比も強烈で、まるで屏風絵のようだ。
この辺りでは、背の低い高山植物が多数を占めているようだ。風の弱い岩陰や氷雪の端などに小さな群落を形成している。キンポウゲの仲間が多く、それにヨモギなどが混ざって生えているのが見える。それらが岩だらけの地を這うようにして生えていて、地鳴りを伴うような突風に耐えていた。
サラフのノコギリの刃のような鋭い尾根筋には、上昇気流が湧き上がっている。細かい筋のような真っ白い雲が、次々に櫛でとかれるように発生し、尾根筋からさらに上空へ吹き上がっている。
太陽が昇っているので気温差が大きくなり、突風が吹き荒れて砂埃がモウモウと湧き上がってきた。それが絶壁の下で作業をしている者たちを包み込んでいく。
しかし、調査隊は防御障壁を展開しているので、目に砂塵が入って困るような事態にはなっていないようだ。この防御障壁は魔法によって生成されている。
それでもかなり難航しているように見える。
彼らは測定機器の調整をしているのだが、器械にかけている防御障壁が不十分なようだ。突風にあおられてガタガタと揺れていている。
しばらく作業を続けていた調査隊の研究員と学生達が、困った顔で教授を見た。もちろん全員ノームで、身長は110センチ程度。華奢な体つきに大きな三角帽子と手袋が目を引く。
研究員たちの報告を受けて、教授が困った表情を浮かべた。
「うむむ、そうかね。砂が機械の中に入ってしまったか。防御障壁と機械との相性が悪かったかな」
研究員が困った顔をしながら同意している。
「そうですね、先生。この状態では発振器の波長の調整ができません」
教授が小さくため息をついてから、時刻を確認した。まだ日没までには余裕がある。天気予報によると嵐が発生する恐れはなさそうだ。
「まあ、もう少し頑張って砂の排除を続けてくれないかな。こんな場所は、そうそう来れないからね」
研究員たちを励まして、そのまま調整作業を見つめる教授。目の前に聳える落差2500メートルを超える絶壁を見上げた。
……と、何かサラフの絶壁にくっついている。
「ん?」
教授が目を凝らすと、そのくっついている者と目が合った。ノームだ。
驚いて目が点になる教授。彼の視線が釘付けになってしまった。
(登山者……か? にしては1人だけしか見えないけど)
教授が他に絶壁にくっついている仲間がいないかどうか探していると、そいつがパッと飛び降りた。
「うわっ」
思わず叫んでしまった教授。
「どうしたんですか」
研究員や学生達が作業の手を慌てて引いて、驚いた顔で教授を注視した。機械がショートするとでも思ったようだ。
「と、ととと飛び降りっ。あ……」
取り乱して指さす教授、だったが――
よく見ると、ほとんど垂直に切り立っている絶壁を滑るように落下してきている。さらによく見ると、両足にナイフのようなものが見え、それで岩盤を切り裂きながら姿勢と落下方向を調整しているようだ。
屏風のように眼前にそびえ立つ垂直の崖には地層がはっきりと見え、幾百もの縞を形づくっている。それを瞬く間に100、200メートルを一気に落下、というよりは滑り落ちて、加速をつけてこちらへやってきた。
それでも完全な自由落下にはなっていないと教授が気づく。見事に速度を制御しながら崖を滑り落ちてきている。
時々、優美なカーブを描いているので、こういった岩滑りには慣れているのだろう。曲がるたびに足元で火花が散っている。
そして、あっという間に絶壁を滑りきって、教授から100メートル先にある大岩だらけの斜面に降り立った。
「何て切れ味の凄いナイフだ」
感心する教授。が、次の瞬間驚愕に変わった。
「岩盤に切り傷がついていない……」
あれだけ岩盤を切り裂きながら滑り降りて来たのに、岩盤には傷一つ残っていなかった。
「何と。魔法ナイフかね。こんにちは。私はルンプー大学のクンチ・トゥル・プラボです」
教授が冷や汗を拭いて、こちらへやってきた岩滑りに話しかけてみる。
岩滑りが答えた。
「ナイフじゃないよ。ピトンだよ。大地の精霊魔法をかけた自家製さ」
何とも気楽な声である。
息も上がっていないが、滑り始めた地点の気温が相当に低かったのだろう、服のあちこちに氷が貼りついている。靴も氷と雪で覆われていた。
しかし、このような過酷な環境に来るには質素すぎる服装にしか見えない。いわゆる極地用の防寒服の類は一切身につけておらず、普通の冬用のジャケットにやや丈夫そうなズボン、手袋に登山靴である。サングラスすらかけていないし、防寒用の帽子もかぶっていないので、そのまま麓の酒場に入っても違和感がない。
精霊魔法による防御障壁だけで間に合っているのだろう。
「珍しいな。こんな場所で一般人に会うなんて初めてだよ。何してるんだい?」
そう言って、岩滑りがやってきた。大学スタッフが調整しているパイルと測定機器を交互に見ている。
「地質調査だよ。ようやく許可が下りたのでね。大地の精霊の動向を調査するんだ」
教授がそう答えると、岩滑りもうなずいた。
「ふうん。先生も気づいたんだな。確かに変だよ、この10年くらい」
岩滑りが手袋を外して、教授に握手を求めた。
「ようこそ精霊の地へ。私もルンプー王国出身だよ。ケラン・ブバス・クルアール。砥ぎ師をしてる」
真っ黒ボロボロに高山日焼けした顔から、笑うと表れる白い歯が。そのせいか、やけに印象的に見える。ノームは口ひげやあごひげを伸ばす趣味の人も多いのだが、彼はきれいに剃っている。
ちなみに教授も同じくひげは剃る主義の人である。フィールドワークをよくするので、手入れが面倒になってしまうのだ。
「ケラン君は、その……冒険家か何かかい?」
握手を交わして教授が訊ねた。思ったよりも岩滑りの手が冷えていないことに内心驚く。
「まあ、そんなところだ……と、言いたいけど貧乏でね。砥ぎ師の仕事で稼がないといけないんだよ。そんなには遊びに行けないな」
ケランが肩をすくめながら笑った。
「1年に3、4ヶ月間しか遊べないんだよ。ははは」
「さ??」
教授の目が点になる。
「少ないだろう? 先生。登りたい山や、滑りたい絶壁はたくさんあるのにな。ストレスたまるよ」
ケランが苦笑しながら、かかとに装着したナイフ(ピトンというらしい)を外した。肩に巻いたロープも降ろす。
ジャラジャラ音がする登山金具をジャケットから外して、背中に背負っていたリュックサックに入れた。その容量は20リットル程度しかない。
ケランが手際よく登山道具をバックに収めていく様を、感心して見ながら教授が聞いてみる。
「思ったほどの重装備ではないんだね。先ほどの岩滑りは、あれはすごかったが、あれは……」
ノームは大地の精霊と親密なので、地中や岩盤の中をそれこそ潜って泳いで移動できる者も多い。しかし、このような遊びを見るのは初めてである。
リュックサックを再び背負って、重心とバランスを確かめながら答えるケランだ。
「岩滑降だよ、先生。重い装備だと疲れるだろ? 最小限の装備がベストだね。工夫すれば、これだけで2週間は持つ。基本的にパンとカップと登山用具さえあれば十分でね」
教授がさすがに驚きの声をあげた。
「え? この荷物だけで君は2週間もここにいたのかい?」
「本当は、もう1週間ほど遊んでいたかったけどね。このピトンの強度が少し足らないのが分かったから、帰って打ち直さなきゃいけない」
そのピトンを教授に見せた。
「ほら、少し曲がってしまっているだろ? この崖の1200メートル上の岩の精霊とうまく調和できなかったんだ。いや、あんな岩がここにあるなんてねぇ」
教授が注意深くピトンを見る。確かに何となく曲がっているような気がする。
「先生、調整できました! 観測できます」
研究員と学生が嬉しそうな声で呼びかけてきて、我に返った教授である。礼を言ってピトンをケランに返した。
「よし、よくやった。じゃあ、パイルを打ち込む用意をしようか」