第4話 叶わぬ夢
「お兄ちゃん、どうして泣くの?」
少女は少し首をかしげながら、黒目がちの愛らしい目で、春樹をじっと見つめている。
春樹はじわりと正気にもどった様子で、涙を拭き、すぐ傍に呆けて立つ隆也に顔を向けてきた。
「春樹、どうした?」
けれど春樹はやはり首を横に振る。
“分からない”のだと。
分からないのに涙が溢れると言う感覚が、隆也には分からなかった。
それはきっと、春樹にだけ与えられた感覚のひとつなのだろう。
「ねえユイちゃん。今日はママと一緒に来たんだよね。ちがう?」
春樹は少し笑って見せた後、跪いたまま少女に再び質問した。
本当に記憶が読めなかったのだろうかと、隆也は訝った。
いったいどこまで読めて、どこまでが読めていないのか。
先ほどの春樹の涙は、単に少女が財布をなくした悲しみに共鳴したわけでは、ないのかもしれない。
「うん。今日は、ママと来たんだよ。でも、どこに行っちゃったんだろうねえ。いないね」
まっすぐ春樹を見て、少女は答える。
春樹はそこでやっと立ち上がり、少し焦ったように辺りを見回した。
隆也も同じようにぐるりとその場で一周まわってみた。
「迷子になってたのかな、ユイちゃん。俺、てっきりこの大学の近所の子で、今日は1人でふらっと遊びに来たのかと思ってたよ」
「母親と来たのは確かなんだけど・・・」
「だけど?」
「何か、わざと母親から離れて来たのかもしれない。すごくユイちゃん、混乱してて、ハッキリ読めないんだけど」
「どうしてどうして? あれか? 実はそのママは継母で、毎日虐められてるとか! そんな話か?」
「そうじゃないよ。そんなんじゃない。でもユイちゃん、きっと怖いんだ。母親と居ることが」
「どうして?」
「どうしても。大好きなんだけど、すごく悲しくてさ。たぶん母親が、自分に関する悲しみを抱え込んでることを知ってる。それを訊くこともせずに、一生懸命頑張って笑ってるんだ、ユイちゃんは。いっぱいいっぱいなのに、懸命に笑ってるんだ。
でも、時々波のように恐ろしい混乱がくる。とても怖くて心細くて・・・」
「だから泣いたのか。さっき」
春樹はただひとつ、瞬きで返してきた。
しばらくゴソゴソしていた少女は、やっと諦めたようにバッグのファスナーを閉じ、隆也ウサギと春樹に再び笑顔を向けた。
「やっぱりお小遣い、落としちゃったのかなあ。なくなっちゃった。でも、いいや。今ユイ、おなかいっぱいだから。ねえ、あっち行こうよ、ウサギさんも、お兄ちゃんも。あっちにお化け屋敷があるんだよ。パパは昨日すっごく怖がってたんだけど、ユイは平気。今日はユイ、泣かないよ」
「ユイちゃん」
春樹は少女の言葉を受け止めるように、優しく呼びかけた。
「ママを捜そう。ね? それからにしよう?」
少女はゆっくり春樹を見上げた。
一体この少女の中には、何が起こっているのだろうと、隆也は胸の痛くなる思いで2人を見つめていた。
春樹はこの少女から、何を感じ取ってしまったのだろう。
少女が昨日父親と入ったと言っているお化け屋敷は、存在しない。
何気ない嘘なのだろうか。
でも、どうして。
「ユイ!」
突然、安堵を含んだ声が後ろから飛んできて、思わず2人は振り返った。
40歳くらいの女性が少女を見ながら、少し汗ばんだ顔をほころばせた。
「ママ! あのね、ユイ、お小遣い落としちゃったみたい。パパに叱られちゃうかな」
そう言いながらも笑顔で母親に走り寄っていく少女の姿には、なんの屈託も、悲しい陰りもなかった。
「良かったじゃん。単に、束の間の迷子ちゃんだったって事かな」
春樹の傍に寄り、隆也はそう言ってみたが、春樹から笑顔は返ってこなかった。
じっと母子を見ている春樹と隆也に気付いたのか、ユイの母親は少し戸惑うように小さく頭を下げた。
「あの、・・・娘がご迷惑お掛けしたんじゃないでしょうか」
「いえいえ、とんでもない」
隆也は相変わらずウサギのまま、大きなジェスチャーで手を振り、否定した。
「ユイちゃんは・・・」
そこで初めて春樹も口を開いた。
「ユイちゃんは、お化け屋敷を探しています。昨日パパと入ったんだと言って」
それは今、あえて訊かなければならない事なんだろうかと隆也は訝ったが、ウサギの分をわきまえ、大人しく成り行きを見ていた。
母親は静かに春樹の言葉を聞き、自分の胸に取り込んだように頷き、そして答えてくれた。
「ええ、そうなんです。昨日父親と行ったお化け屋敷にもう一度行くことが、ユイの夢なんです。去年も、一昨年も、その夢は叶いませんでした」
母親の悲しい手が、娘の頭をやさしく撫でた。