第6章:それでも
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それから、3ヶ月が経った。
透は倉庫の仕事を続けていた。
毎日、重い荷物を運ぶ。単純作業。でも、透はそれが嫌いではなかった。
身体を動かしていると、頭が空っぽになる。
余計なことを考えずに済む。
仕事が終わると、透は美月と会った。
カフェで、公園で、時には美月のアパートで。
2人は他愛もない話をした。
仕事のこと、天気のこと、テレビで見たニュースのこと。
平凡な日常。
でも、透にとって、それが何より大切だった。
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### 2
ある日、透は美月と海に行った。
平日の午後。人は少なかった。
2人は砂浜を歩いた。
「ねえ、透くん」
美月が言った。
「記憶を買い戻すこと、考えてる?」
透は首を横に振った。
「いえ。もういいです」
「本当に?」
「はい」
透は美月を見た。
「俺、過去の記憶よりも、今の記憶の方が大切なんです」
美月は微笑んだ。
「…そっか」
透は続けた。
「美月さんと過ごす今。それが、俺にとって一番大事な記憶です」
美月は透の手を握った。
「私も」
2人は波打ち際を歩いた。
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### 3
夕暮れ時、2人はベンチに座った。
海を見ながら、並んで座る。
美月は透の肩に頭を預けた。
「透くん」
「何ですか?」
「私ね、ずっと思ってたの」
美月は静かに言った。
「あなたが記憶を売ってから、毎日考えてた。もう会えないんだって」
透は黙って聞いていた。
美月は続けた。
「でも、諦められなかった。だから、あなたを探した」
「…ごめんなさい」
「謝らないで」
美月は顔を上げた。
「私は後悔してない。あなたを探して、良かった」
透は美月を見つめた。
「…ありがとう」
美月は笑った。
「こちらこそ」
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### 4
透はふと尋ねた。
「美月さん。俺が記憶を売らなかったら、俺たちはどうなってたと思いますか?」
美月は少し考えた。
「…わからない。でも、たぶん別れてたと思う」
透は目を見開いた。
「え?」
「だって、あの時の私たち、うまくいってなかったから」
美月は海を見た。
「あなたはお母さんの介護で疲れてて、私はあなたを支えられなくて。お互い、すれ違ってた」
透は何も言えなかった。
美月は続けた。
「でも、あなたが記憶を売って、また会えて。今度は、ちゃんと向き合えてる」
美月は透を見た。
「だから、これで良かったのかもしれない」
透は微笑んだ。
「…そうですね」
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### 5
夜、透は一人でアパートに戻った。
ベッドに横になり、天井を見つめた。
スマートフォンが鳴った。
画面には「神代蒼」の名前。
透は電話に出た。
「もしもし」
「柊さん。久しぶりです」
蒼の声がした。
「神代さん。どうしたんですか?」
「少し、話したいことがあって」
透は起き上がった。
「…何ですか?」
蒼は少しだけ間を置いた。
「あなたの記憶を、返します」
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### 6
透は息を呑んだ。
「…記憶を?」
「ええ。あなたが売った記憶データを、無償で返却します」
透は混乱した。
「どうして、急に…」
蒼は答えた。
「私は、あなたの記憶から"愛"を学びました。でも、それは偽物でした」
透は黙って聞いた。
蒼は続けた。
「本物の愛は、もっと複雑で、醜くて、それでも美しい。私はそれを、あなたから教わりました」
「…」
「だから、もう必要ありません。あなたの記憶は、あなたのものです」
透は少しだけ考えた。
そして、静かに言った。
「…いりません」
蒼は驚いた様子だった。
「え?」
「俺、もう過去の記憶はいらないんです」
透は窓の外を見た。
「今の記憶の方が、大切だから」
蒼は黙った。
そして、小さく笑った。
「…そうですか」
「はい」
透は続けた。
「でも、ありがとうございました。あなたのおかげで、俺は前に進めました」
蒼は答えた。
「…どういたしまして」
電話が切れた。
透はスマートフォンを置いた。
そして、静かに微笑んだ。
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### 7
翌日、透は美月に蒼からの連絡を話した。
「記憶を返すって言われたんです」
美月は驚いた。
「本当に?」
「はい。でも、断りました」
美月は透を見た。
「…どうして?」
透は答えた。
「過去の記憶よりも、今の記憶の方が大切だから」
美月は目に涙を浮かべた。
「透くん…」
透は美月の手を握った。
「美月さん。俺、過去の自分がどんな人間だったか知りました。最低で、弱くて、人を傷つける人間でした」
透は美月を見つめた。
「でも、今の俺は違います。今の俺は、あなたを大切にできる」
美月は涙を流した。
「うん」
透は美月を抱きしめた。
「これからも、ずっと一緒にいてください」
美月は透の胸で頷いた。
「…うん」
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### 8
それから、また時間が流れた。
透と美月は、小さなアパートで一緒に暮らし始めた。
透は倉庫の仕事を続け、美月はカフェで働いた。
2人の生活は平凡だった。
朝起きて、仕事に行って、夜帰ってくる。
一緒にご飯を食べて、テレビを見て、たまに喧嘩をして。
でも、それが幸せだった。
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ある夜、透は美月に尋ねた。
「美月さん。俺のこと、愛してますか?」
美月は笑った。
「何、急に」
「いや、なんとなく」
美月は透の顔を見た。
「愛してるよ。当たり前でしょ」
透は微笑んだ。
「…ありがとう」
美月は透の手を握った。
「透くんは? 私のこと、愛してる?」
透は頷いた。
「はい。心から」
美月は嬉しそうに笑った。
「良かった」
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### 9
透はふと思った。
記憶を失って、良かったのかもしれない。
もし記憶を失わなければ、自分は変われなかった。
過去の自分に縛られたまま、美月を傷つけ続けていたかもしれない。
でも、記憶を失ったことで、透は"新しい自分"になれた。
過去に囚われない、今を生きる自分に。
透は美月の寝顔を見つめた。
穏やかな表情。
透は静かに微笑んだ。
「ありがとう、美月さん」
透は呟いた。
「俺を、愛してくれて」
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### 10
翌朝、透は目を覚ました。
美月はまだ眠っていた。
透はそっとベッドを出て、窓を開けた。
朝の空気が、部屋に流れ込んできた。
透は深呼吸をした。
そして、空を見上げた。
青い空。
透は思った。
人は、記憶で作られているのではない。
今、この瞬間の選択で作られている。
過去がどうであれ、今をどう生きるか。
それが、人を決める。
透は微笑んだ。
そして、キッチンに向かった。
美月のために、朝食を作ろうと思った。
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### 11
美月が目を覚ました時、部屋にはコーヒーの香りが漂っていた。
「おはよう、美月さん」
透がエプロン姿で笑った。
美月は目を丸くした。
「透くん、朝ご飯作ってくれたの?」
「はい。たいしたものじゃないですけど」
テーブルには、トーストとスクランブルエッグ、サラダが並んでいた。
美月は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
2人はテーブルに座った。
「いただきます」
2人は笑顔で食事を始めた。
窓からは朝日が差し込んでいた。
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透は思った。
これが、自分の人生だ。
記憶を失っても、過去を失っても。
今、ここにいる自分が、愛する人と一緒にいる。
それだけで、十分だった。
透は美月を見た。
美月も透を見て、微笑んだ。
「どうしたの?」
「いえ、何でも」
透は笑った。
「ただ、幸せだなって思って」
美月は優しく微笑んだ。
「私も」
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### 12
物語は、ここで終わる。
柊透は記憶を失った。
大切な人との3年間を、売り払った。
でも、彼は新しい記憶を手に入れた。
愛する人と、もう一度出会い、もう一度恋をした。
記憶が人を作るのではない。
今、この瞬間が人を作る。
透はそれを、心から信じることができた。
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そして、2人の新しい物語が、始まった。
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## 【完】
**『君を忘れた僕が、君を愛する理由』**
記憶を売った男と、愛を覚えている女の物語。
過去を失っても、人は愛せる。
今、この瞬間を大切にすれば。




