第2章:失われた3年間
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透と美月は、週に一度会うようになった。
最初は、ぎこちなかった。
透は美月にどう接すればいいのかわからず、美月は透の「空白」を埋めようと必死だった。
でも、次第に2人の間に、何かが生まれ始めていた。
それは「記憶」ではなく、「今」の関係だった。
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日曜日の昼下がり、2人は小さなカフェにいた。
美月はラテを飲みながら、透に話しかけた。
「ねえ、透くん。昔、私たちがよく行ってた場所があるの」
「…どこですか?」
「海。車で1時間くらいのところ」
美月は少しだけ遠くを見た。
「あなたは海が好きだった。波の音を聞いてると、落ち着くって言ってた」
透はコーヒーを一口飲んだ。
「…今も、そうなんでしょうか」
「わからない。でも、行ってみる?」
透は頷いた。
「はい」
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### 2
2人は電車に乗り、海へ向かった。
車窓から見える景色は、透にとって初めて見るものばかりだった。少なくとも、そう感じた。
美月は窓の外を眺めながら、静かに話し始めた。
「透くんと初めて会ったのは、大学のサークルだったの」
「サークル…」
「映画研究会。透くんはグラフィックデザインの勉強をしてて、私は脚本を書いてた」
透は美月の横顔を見た。
「俺、デザイナーだったんですね」
「うん。すごく才能があったのよ。でも…」
美月は言葉を切った。
「お母さんが倒れて、仕事を辞めざるを得なくなった」
透は何も言えなかった。
自分の母親。
その存在すら、記憶にない。
「…母は、どんな人だったんですか?」
美月は少し考えてから、答えた。
「優しい人だった。透くんのこと、すごく大事にしてた」
「そうですか」
透は窓の外を見た。
知らない母親。
知らない自分。
知らない過去。
全てが、他人事のようだった。
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### 3
海に着いた。
波の音が、耳に心地よく響いた。
透は砂浜に立ち、海を見つめた。
「…なんだか、懐かしい気がします」
美月は透の隣に立った。
「本当?」
「わからないですけど。でも、ここに来たことがあるような…」
透は目を閉じた。
波の音。
潮の香り。
風が頬を撫でる感覚。
その全てが、どこか記憶の底に沈んでいるような気がした。
「透くん」
美月が呼んだ。
透は目を開けた。
美月は、少し寂しそうに笑っていた。
「あなたは昔、ここで私にプロポーズしてくれたの」
透は息を呑んだ。
「…プロポーズ?」
「うん。指輪も、用意してくれてた」
美月は左手の薬指を見た。
「でも、私は断った」
「…なぜ?」
「怖かったから」
美月は海を見た。
「透くんがお母さんの治療費で苦しんでるのを知ってた。結婚なんてしたら、もっと負担が増える。だから、断った」
彼女は拳を握った。
「そしたら、透くんは記憶を売り始めた」
透は黙って、美月の言葉を聞いた。
「最初は少しずつだった。高校時代の思い出とか、大学の記憶とか。でも、それだけじゃ足りなくて…」
美月の声が震えた。
「最後に、私との3年間を売った」
透は、何も言えなかった。
ただ、胸が痛んだ。
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### 4
2人は砂浜に座った。
沈黙が続いた。
透は、言葉を探していた。
何を言えばいいのか。
どう慰めればいいのか。
でも、何も見つからなかった。
「…俺は、最低ですね」
透が呟いた。
美月は首を横に振った。
「そんなことない」
「でも、俺はあなたを捨てた」
「違う」
美月は透の目を見た。
「あなたは、私を守ろうとしたの。借金を返して、私に迷惑をかけないようにって」
「それでも…」
「透くん」
美月は透の手を握った。
「私、あなたを恨んでない。むしろ、ありがとうって思ってる」
透は美月の手を見た。
温かかった。
「…なんで、そんなに優しくできるんですか」
「わからない」
美月は笑った。
「でも、あなたを嫌いになれないの」
透は、美月の手を握り返した。
初めて、誰かに触れたいと思った。
初めて、誰かを守りたいと思った。
記憶がなくても。
過去を知らなくても。
今、この瞬間の自分が、彼女を愛おしいと思った。
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### 5
その日の夜、透はアパートに戻った。
ベッドに横になり、天井を見つめた。
美月との会話が、頭の中でリピートされる。
**プロポーズ。**
**指輪。**
**断られた過去。**
透は、それを思い出せない。
でも、胸の奥に、何かが残っていた。
それは「痛み」だった。
記憶はなくても、感情の痕跡が残っているような気がした。
透はスマートフォンを取り出した。
検索バーに「記憶売買 買い手」と入力した。
いくつかの記事が出てきた。
透はその中の一つを開いた。
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**『記憶を買う人々―感情を求める富裕層たち』**
記事には、記憶を買う人々の実態が書かれていた。
感情を失った富裕層。
体験を求める若者。
犯罪の記憶を買うコレクター。
そして、記事の最後に一枚の写真があった。
**神代 律**
大企業「神代グループ」の御曹司。
記憶コレクターとして有名。
透は、その顔を見た瞬間、何かが引っかかった。
この男を、どこかで見たことがある。
いや、違う。
この男が、自分の記憶を持っている。
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### 6
翌日、透は美月に連絡した。
「神代律という人を、知っていますか?」
美月は少しだけ沈黙した。
「…知ってる」
「俺の記憶を買ったのは、彼ですか?」
「そう」
美月の声は、どこか硬かった。
「彼は、あなたの記憶を800万円で買った。そして今、その記憶を"生きている"」
透は息を呑んだ。
「…会いたいんです」
「透くん」
美月は言った。
「やめた方がいい」
「なぜ?」
「彼は…危険な人だから」
「それでも」
透は強く言った。
「俺は、自分が何を売ったのか知りたい」
美月は長い沈黙の後、言った。
「…わかった。紹介する」
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### 7
数日後、透は神代律と会った。
場所は、高級ホテルのラウンジ。
神代は、スーツを着た30代の男だった。
整った顔立ち。冷たい目。
でも、どこか「空虚」な雰囲気があった。
「初めまして、柊透さん」
神代は微笑んだ。
「いや、初めましてではないか。僕は君のことをよく知っている」
透は椅子に座った。
「…俺の記憶を買ったのは、あなたですか?」
「その通り」
神代は優雅に紅茶を飲んだ。
「君の記憶は素晴らしかった。特に、美月さんとの3年間はね」
透は拳を握った。
「…どんな記憶だったんですか?」
神代は目を細めた。
「知りたい?」
「はい」
「面白い」
神代は笑った。
「じゃあ、話してあげよう。君が失った、3年間の愛を」
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神代は、透の記憶を語り始めた。
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**2019年4月。**
君と美月は、大学のサークルで出会った。
最初は友人だった。
でも、ある日、君は彼女に恋をした。
彼女が書いた脚本を読んで、涙を流したんだ。
「こんなに美しい言葉を書ける人がいるんだ」って。
君は勇気を出して、彼女に告白した。
彼女は笑って、こう言った。
「私も、あなたが好きだった」
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**2020年。**
君たちは同棲を始めた。
狭いアパートだったけど、幸せだった。
君はデザインの仕事をして、彼女は脚本を書いた。
2人で夢を追いかけた。
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**2021年。**
君の母親が倒れた。
癌だった。
治療費は高額で、君は仕事を辞めざるを得なくなった。
美月は君を支えた。
「一緒に乗り越えよう」って。
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**2022年7月14日。**
君は海で、美月にプロポーズした。
指輪を差し出して、言った。
「君と一生、一緒にいたい」
でも、美月は断った。
「私がいたら、あなたの負担になる」って。
君は泣いた。
そして、数日後。
君は記憶を売り始めた。
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神代は語り終えた。
透は、涙を流していた。
自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。
記憶はない。
でも、心が痛んだ。
「…素晴らしい記憶だろう?」
神代は言った。
「僕は君の記憶を買って、初めて"愛"を知った」
透は神代を見た。
「…あなたは、愛を知らなかったんですか?」
「ああ」
神代は冷たく笑った。
「僕は生まれた時から、全てを持っていた。金も、地位も、名声も。でも、愛だけはなかった」
彼は透の目を見た。
「君の記憶を買って、僕は初めて"人間"になれた気がした」
透は何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、ひどく苦しかった。




