第1章:空っぽの男
1
柊透は、自分の名前をどこで知ったのか思い出せなかった。
財布の中の身分証に書いてあったのか。それとも誰かが呼んでくれたのか。あるいは、ただ何となく「自分はこう呼ばれているらしい」と理解しただけなのか。
わからない。
わからないことだらけだった。
透は午前6時に目を覚ます。目覚まし時計はない。体内時計も信用していない。ただ、毎朝決まった時間に目が覚めるのは、身体が覚えているからだと思っている。何を、とは説明できないが。
ワンルームのアパートは殺風景だった。ベッド、小さなテーブル、冷蔵庫。壁には何も飾られていない。写真も、ポスターも、カレンダーすらない。
透は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。
27歳。職業不詳。記憶、ほぼなし。
鏡に映る顔は、他人のもののように感じる。この顔が「柊透」という人間のものだと、ただ受け入れているだけだ。
髪を整え、シャツを着て、透は外に出た。
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### 2
透が働いているのは、港の倉庫だった。
日雇いの荷物運び。重たい段ボールを積んで、降ろして、また積む。単純作業。何も考えなくていい。それが透にとって都合が良かった。
「おい、柊!」
現場監督の声が飛んでくる。透は反射的に振り向いた。自分の名前だと、身体が反応する。
「2トントラック、あと3台分だ。急げ」
「了解です」
透は淡々と作業を続けた。
汗が流れる。筋肉が悲鳴を上げる。でも、それが心地よかった。身体を動かしている間は、何も考えずに済む。
「なあ、柊ってさ」
休憩時間、同僚の男が話しかけてきた。
「前は何やってたんだ? デザイナーとか?」
透は首を傾げた。
「…わかりません」
「え? 冗談だろ」
「本当に、覚えてないんです」
男は困ったように笑った。
「お前、変わってんな」
透は曖昧に笑い返した。
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### 3
仕事が終わり、透はコンビニで弁当を買った。
レジの店員は透の顔を見て、少しだけ表情を曇らせた。透はそれに気づいたが、何も言わなかった。
記憶を売った人間は、見ればわかる。
目に「何か」が欠けている。感情の起伏が薄い。表情が平坦だ。透もその一人だった。
弁当を持ってアパートに戻ると、ポストに一通の封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
透は封を開けた。
中には一枚のメモと、古びた写真が入っていた。
**『あなたは、私を覚えていますか?』**
写真には、若い女性が写っていた。
笑顔。長い髪。透の隣に立って、肩を寄せている。
透は写真をじっと見つめた。
この女性を、知らない。
でも、胸の奥が、ざわついた。
何かが引っかかる。まるで、忘れてはいけない何かを、忘れてしまったような感覚。
透は写真を裏返した。
そこには、手書きの文字があった。
**『2022年7月14日 透と美月』**
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### 4
翌日、透はいつものように倉庫に向かった。
しかし、作業中もずっと、あの写真のことが頭から離れなかった。
**美月。**
その名前に、何も反応しない。顔も、声も、何も思い出せない。
でも、「探さなければいけない」という焦燥感だけが、胸にあった。
昼休み、透はスマートフォンを取り出した。
連絡先リストは、ほとんど空だった。仕事関係の番号がいくつかあるだけ。SNSのアカウントも持っていない。
透は検索バーに「美月」と入力した。
当然、何も出てこない。
ため息をついて、透はスマホをポケットにしまおうとした。
その時、背後から声がした。
「透くん?」
透は振り向いた。
そこに、写真の中の女性が立っていた。
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### 5
透は、その女性をじっと見つめた。
長い髪。華奢な体つき。どこか儚げな雰囲気。
写真と、同じ顔だった。
「…美月、さん?」
透が名前を口にすると、女性は少しだけ表情を緩めた。
「覚えてくれてたんだ」
「いえ」
透は首を横に振った。
「写真を、もらったんです。昨日、ポストに」
美月は目を伏せた。
「そう。やっぱり」
彼女は小さく息を吐いた。
「あなた、本当に私のこと、覚えてないのね」
透は何も言えなかった。
美月は透の目を見つめた。
「私たち、3年付き合ってたの。2019年から2022年まで」
透の頭の中が、真っ白になった。
「…3年?」
「そう。あなたは私を愛してくれた。私も、あなたを愛してた」
美月の声は静かだったが、どこか諦めたような響きがあった。
「でも、あなたはその記憶を売った。800万円で」
透は息を呑んだ。
「800万…」
「そう。私との3年間は、あなたにとって800万円の価値だったのよ」
美月は笑った。
でも、その笑顔は悲しかった。
透は何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、ひどく痛んだ。
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### 6
美月は透の隣に座った。
倉庫の裏手、コンクリートの階段。2人は並んで座り、何も言わずに空を見上げた。
「…なんで、俺はそんなことをしたんでしょう」
透が呟いた。
美月は少しだけ考えてから、答えた。
「借金があったから。あなたのお母さんが亡くなって、その治療費と葬式代で、かなりの額が残ったの」
「母親…」
透は自分の母親の顔を思い出そうとした。
何も出てこなかった。
「母親の記憶も、売ったんですか?」
「ええ。お母さんが亡くなった後、あなたは色々なものを売った。高校時代、大学の思い出、初恋の記憶…そして、最後に私との3年間を売った」
美月は膝を抱えた。
「それで借金は返せたの。でも、あなたは空っぽになった」
透は拳を握った。
「…俺は、最低ですね」
「そんなことない」
美月は首を横に振った。
「あなたは、必死だったのよ。お母さんを救いたくて、でも間に合わなくて。それでも借金だけが残って…」
彼女は透の顔を見た。
「あなたは悪くない」
透は、美月の目を見返した。
この女性は、自分を責めていない。
むしろ、許そうとしている。
それが、透にはひどく辛かった。
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### 7
「…あなたは、なぜ俺を探したんですか?」
透は尋ねた。
美月は少しだけ笑った。
「わからない。でも、あなたに会いたかった」
「俺は、もう何も覚えてないのに」
「それでもいいの」
美月は立ち上がった。
「私はあなたとの3年間を覚えてる。それだけで、十分」
彼女は透に手を差し伸べた。
「ねえ、透くん。もう一度、会ってくれる?」
透は彼女の手を見つめた。
この手を取るべきなのか。
自分には、その資格があるのか。
でも。
透は、その手を取った。
「…はい」
美月は微笑んだ。
「ありがとう」
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### 8
その日の夜、透は一人でアパートに戻った。
ベッドに横になり、天井を見つめた。
**美月。**
名前を心の中で繰り返す。
何も思い出せない。
でも、胸の奥に、温かい何かがあった。
それが何なのか、透にはわからなかった。
ただ、一つだけわかることがあった。
自分は、この女性を失いたくない。
記憶がなくても。
過去がなくても。
今、ここにいる自分が、彼女を守りたいと思った。
透は目を閉じた。
そして、静かに呟いた。
「美月さん」
その名前を呼ぶと、少しだけ、自分が「人間」に戻ったような気がした。




