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『君を忘れた僕が、君を愛する理由』  作者: 月城 リョウ


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1/6

第1章:空っぽの男

1

柊透は、自分の名前をどこで知ったのか思い出せなかった。


財布の中の身分証に書いてあったのか。それとも誰かが呼んでくれたのか。あるいは、ただ何となく「自分はこう呼ばれているらしい」と理解しただけなのか。


わからない。


わからないことだらけだった。


透は午前6時に目を覚ます。目覚まし時計はない。体内時計も信用していない。ただ、毎朝決まった時間に目が覚めるのは、身体が覚えているからだと思っている。何を、とは説明できないが。


ワンルームのアパートは殺風景だった。ベッド、小さなテーブル、冷蔵庫。壁には何も飾られていない。写真も、ポスターも、カレンダーすらない。


透は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。


27歳。職業不詳。記憶、ほぼなし。


鏡に映る顔は、他人のもののように感じる。この顔が「柊透」という人間のものだと、ただ受け入れているだけだ。


髪を整え、シャツを着て、透は外に出た。


---


### 2


透が働いているのは、港の倉庫だった。


日雇いの荷物運び。重たい段ボールを積んで、降ろして、また積む。単純作業。何も考えなくていい。それが透にとって都合が良かった。


「おい、柊!」


現場監督の声が飛んでくる。透は反射的に振り向いた。自分の名前だと、身体が反応する。


「2トントラック、あと3台分だ。急げ」


「了解です」


透は淡々と作業を続けた。


汗が流れる。筋肉が悲鳴を上げる。でも、それが心地よかった。身体を動かしている間は、何も考えずに済む。


「なあ、柊ってさ」


休憩時間、同僚の男が話しかけてきた。


「前は何やってたんだ? デザイナーとか?」


透は首を傾げた。


「…わかりません」


「え? 冗談だろ」


「本当に、覚えてないんです」


男は困ったように笑った。


「お前、変わってんな」


透は曖昧に笑い返した。


---


### 3


仕事が終わり、透はコンビニで弁当を買った。


レジの店員は透の顔を見て、少しだけ表情を曇らせた。透はそれに気づいたが、何も言わなかった。


記憶を売った人間は、見ればわかる。


目に「何か」が欠けている。感情の起伏が薄い。表情が平坦だ。透もその一人だった。


弁当を持ってアパートに戻ると、ポストに一通の封筒が入っていた。


差出人の名前はない。


透は封を開けた。


中には一枚のメモと、古びた写真が入っていた。


**『あなたは、私を覚えていますか?』**


写真には、若い女性が写っていた。


笑顔。長い髪。透の隣に立って、肩を寄せている。


透は写真をじっと見つめた。


この女性を、知らない。


でも、胸の奥が、ざわついた。


何かが引っかかる。まるで、忘れてはいけない何かを、忘れてしまったような感覚。


透は写真を裏返した。


そこには、手書きの文字があった。


**『2022年7月14日 透と美月』**


---


### 4


翌日、透はいつものように倉庫に向かった。


しかし、作業中もずっと、あの写真のことが頭から離れなかった。


**美月。**


その名前に、何も反応しない。顔も、声も、何も思い出せない。


でも、「探さなければいけない」という焦燥感だけが、胸にあった。


昼休み、透はスマートフォンを取り出した。


連絡先リストは、ほとんど空だった。仕事関係の番号がいくつかあるだけ。SNSのアカウントも持っていない。


透は検索バーに「美月」と入力した。


当然、何も出てこない。


ため息をついて、透はスマホをポケットにしまおうとした。


その時、背後から声がした。


「透くん?」


透は振り向いた。


そこに、写真の中の女性が立っていた。


---


### 5


透は、その女性をじっと見つめた。


長い髪。華奢な体つき。どこか儚げな雰囲気。


写真と、同じ顔だった。


「…美月、さん?」


透が名前を口にすると、女性は少しだけ表情を緩めた。


「覚えてくれてたんだ」


「いえ」


透は首を横に振った。


「写真を、もらったんです。昨日、ポストに」


美月は目を伏せた。


「そう。やっぱり」


彼女は小さく息を吐いた。


「あなた、本当に私のこと、覚えてないのね」


透は何も言えなかった。


美月は透の目を見つめた。


「私たち、3年付き合ってたの。2019年から2022年まで」


透の頭の中が、真っ白になった。


「…3年?」


「そう。あなたは私を愛してくれた。私も、あなたを愛してた」


美月の声は静かだったが、どこか諦めたような響きがあった。


「でも、あなたはその記憶を売った。800万円で」


透は息を呑んだ。


「800万…」


「そう。私との3年間は、あなたにとって800万円の価値だったのよ」


美月は笑った。


でも、その笑顔は悲しかった。


透は何も言えなかった。


ただ、胸の奥が、ひどく痛んだ。


---


### 6


美月は透の隣に座った。


倉庫の裏手、コンクリートの階段。2人は並んで座り、何も言わずに空を見上げた。


「…なんで、俺はそんなことをしたんでしょう」


透が呟いた。


美月は少しだけ考えてから、答えた。


「借金があったから。あなたのお母さんが亡くなって、その治療費と葬式代で、かなりの額が残ったの」


「母親…」


透は自分の母親の顔を思い出そうとした。


何も出てこなかった。


「母親の記憶も、売ったんですか?」


「ええ。お母さんが亡くなった後、あなたは色々なものを売った。高校時代、大学の思い出、初恋の記憶…そして、最後に私との3年間を売った」


美月は膝を抱えた。


「それで借金は返せたの。でも、あなたは空っぽになった」


透は拳を握った。


「…俺は、最低ですね」


「そんなことない」


美月は首を横に振った。


「あなたは、必死だったのよ。お母さんを救いたくて、でも間に合わなくて。それでも借金だけが残って…」


彼女は透の顔を見た。


「あなたは悪くない」


透は、美月の目を見返した。


この女性は、自分を責めていない。


むしろ、許そうとしている。


それが、透にはひどく辛かった。


---


### 7


「…あなたは、なぜ俺を探したんですか?」


透は尋ねた。


美月は少しだけ笑った。


「わからない。でも、あなたに会いたかった」


「俺は、もう何も覚えてないのに」


「それでもいいの」


美月は立ち上がった。


「私はあなたとの3年間を覚えてる。それだけで、十分」


彼女は透に手を差し伸べた。


「ねえ、透くん。もう一度、会ってくれる?」


透は彼女の手を見つめた。


この手を取るべきなのか。


自分には、その資格があるのか。


でも。


透は、その手を取った。


「…はい」


美月は微笑んだ。


「ありがとう」


---


### 8


その日の夜、透は一人でアパートに戻った。


ベッドに横になり、天井を見つめた。


**美月。**


名前を心の中で繰り返す。


何も思い出せない。


でも、胸の奥に、温かい何かがあった。


それが何なのか、透にはわからなかった。


ただ、一つだけわかることがあった。


自分は、この女性を失いたくない。


記憶がなくても。


過去がなくても。


今、ここにいる自分が、彼女を守りたいと思った。


透は目を閉じた。


そして、静かに呟いた。


「美月さん」


その名前を呼ぶと、少しだけ、自分が「人間」に戻ったような気がした。


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