4-1 画角外の世界
瞼を、開く。そこに広がる光景に、私はふぅ、と深い息を吐いた。不思議と涙は出てこない。ゆっくりとベッドから身体を起こし、扉へ向かって足を進める。ガチャリ、とそう響かせて廊下へと歩み出た。階段を下り、リビングを目指す。昨日よりかは冷静に、この状況を理解しているからこそ改めて、思う。画面を通じて幾度も目にしたことのある扉や手すり、カーペットや階段。それらを触れる、踏みつける。その度に確かに広がる感触が、どこまでも新鮮に、気持ち悪い。ゲームの画面越しに何度も見ていた、知っていた。知識としては今も、しっかりとそのもの自体を認識している。それなのに、肌に当たるとその瞬間、それらは知らない何かへと変化する。プレイヤーの『私』からすれば、触れること自体が違和感なのだ。カーペットの柔らかさや扉の重さ、階段の手すりの冷たさなんて
「知らないままで、良かったのになぁ」
そんなことを考えている内に、リビングへと到着した。ふわり、と漂ってくるその甘い香りに小さく吐き気を催しながら台所へと顔を覗かせる。フライパンと向かい合っている、そのメイド服におはようと声を掛けると
「あらぁ、お嬢様ぁ」
おはようございます、とのどかさんは顔を上げ、今日はホットケーキですよぉ、と私に向けて微笑んだ。
早々にご飯を平らげ、ご馳走様を響かせた。雪代華の部屋へと戻り、丸椅子に腰掛ける。机に立てられている新品のノートを一冊開き、ボールペンを握る。そして、よし、とそう声に出して、私はペンを走らせた。今、覚えている限りの情報をそのノートへと書き殴っていく。
まずはゲームの舞台である、八重咲学院について。主人公が入学するこの八重咲学院は中高一貫の学校だ。普通科のみの中等部に比べ、高等部からは特進科が設けられており、主人公はこの特進科へと進学を果たす。部活動や校内行事では中等部と共に活動することもあり、下級生との交流は盛んに行われている。
「こんな感じ、かな」
ゲーム内で表示されていたミニ校内マップをノートに描く。そこに付随するようにこれから展開されていく様々なイベントの詳細を、その過程に至るまでの経緯を含めて書き記した。今度はページを変えて、攻略対象を含めた、これから出会う登場人物たちのプロフィールを分かりやすく埋めていく。万が一、私がこのゲームについての情報を、忘れてしまっても大丈夫なように。
私は、気が付いてしまった。今、自身が置かれているこの状況について、思い当たったその三つのもしも。その中の一つ、もしここが夢の中だったなら、という想像が正しかった場合。つまり眠っている『私』の身体が何かしらの大きな負傷を受けたのでは、という考えが、当たっていたその場合。今、私が覚えている情報が、明日になっては綺麗さっぱり思い出せない、なんて。そんな悲劇が起こりうる可能性に、私は、気が付いてしまったのだ。
書き殴る書き表す書き示す、書き散らす書き捨てる書き綴る。斯く書く描く、掻く欠く各
「書け、たぁ」
ボールペンから手を離し、んんー、とその場で大きく伸びをした。ぺらり、とページを捲る。白紙のページは僅か一枚。情報でびっしりと埋まったノートを前に、まさか手書きで攻略本を作成する日が来るだなんて、と思わず苦笑いを浮かべた。これで一先ずは
「何が起こっても、大丈夫」
今の私には過去と呼べるものがない。雪代華としての記憶もなく、脳内に刻まれているのはこれから起こるゲーム内の情報のみ。自身が何者なのか分からなければ、『私』が本当に存在しているのかさえ定かでない。この状況下において、私にあるのは恐怖のみ。そう、本当に。私は今、ただただ怖い。怖くて、怖くて、仕方がないのだ。それなのに、もしもここからゲームに関する、この世界に関する情報さえもなくなってしまったら。おそらくきっとその時は、私は雪代華ではない、という違和感さえも消えてしまう。違和感を抱くことすら出来ず、記憶を無くした雪代華として、この世界を生きていくことになるのだろう。完全なる『私』の消失。それは一体、どれほど恐ろしいことだろう。しかもその恐怖は、私が私であることを忘れた後には感じることさえ許されないのだ。
ぺら、ぺらと手の中のノートを捲る。書いた文字を目で追いながらこれで、大丈夫だよね?と問いかけてみるも返ってくる声はない。もう一度私はペンを握り、最後のその白紙を開いた。そして《私は雪代華ではない》とそう大きく、その叫びを書き残したのであった。
とりあえずこれで、ここが夢だった場合の対策は終えた。この次に私が出来ることといえば
「…よし」
そう声にして立ち上がり、私は部屋を出た。階段のすぐ下から聞こえてくる、掃除機の音を目掛けて進む。のどか、と声を掛けるとその背中がゆっくりと向きを変えた。
「お嬢様ぁ」
どうかされましたかぁ?と投げかけられた言葉に、私はごくり、と喉を鳴らして問う。
「今日のこの後、何か予定って、ある?」
私のそんな言葉に、のどかさんはこの後ですかぁ?と小さく首を傾げると
「近くのスーパーへ、お買い物に行く予定ですがぁ」
それがなにか、と言わんばかりののどかさんのその表情に、私はぎゅっと自身の手を強く握りしめた。もう一度ごくり、とその音を響かせてあのさ、とそう言葉を続ける。
「それ、私も、一緒に行って良い?」




