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6-3 脳の働き


「わたしはお嬢様と十年、一緒に暮らしてきましたのでネオお嬢様の『私』探しの、力にもなれると思いますよぉ」

 ただし、そうのどかさんは一度言葉を切ると私の手からマグカップを取って

「あと少しで晩御飯なのでぇ、頑張るのは明日からにしましょう」

 そう言ってにっこり、私に微笑む。それではネオお嬢様また後ほどぉ、と扉を開いたのどかさんのその背を追おうとして、止めた。一人になる時間が必要だ、と考えたのだ。私にも、彼女にも。ありがとう、とそう言う私にのどかさんはぺこりと小さく頭を下げた。ぱたん、と扉が閉じられたのを確認して

「………ふぅ」

 私は背中から勢いよくベッドの上へと倒れ込んだ。ぎしりと音を立てながら跳ねるベッド。結局全て話してしまったなぁ、とそう思う。一度、手の中に残ったそのメモ用紙を確認して、天井を見上げた。のどかさんは、大人だ。夢から醒めない現状に変わりはないが、胸の内を曝け出したことで確かに少し軽くなった身体。肩の荷が降りたのではない、私は私の抱えていた荷物を、強制的にのどかさんに背負わせたのだ。荒唐無稽とも感じられる私の話を否定せずに聞き入れて、その上で解決策を提案した。彼女は決して、私という異物を受け入れたわけではない。受け入れられる、はずがない。十年間共に生きてきた相手の中身が別の人間だ、なんて急に言われても理解は出来ないし、そんな悍ましい事実、理解したくもないだろう。それでも、彼女はあの場に置いて、自分の感情よりも先に目の前で狼狽えている人間に寄り添うことを優先したのだ。あぁ、本当に、のどかさんは

「…凄いなぁ」

 敵わない。はぁ、とそう吐きながら寝返りを打った。私はなんて弱いんだろう。それに、行動の基準がいつも自分本位だ。思わず、また溢れそうになった涙をぐっと堪える。私が泣くことは、許されない。今、一番泣きたいのはのどかさんなのだから。ゆっくりと身体を起こし、ぺちんと両頬を鳴らした。私が今、考えるべきことは明日以降の身の振り方だ。先程のどかさんは、『私』探しの力にもなれるとそう私に言った。この身体が雪代華のものである限り、おそらく、彼女は私に対するその献身的な姿勢を保ち続けるのだろう。例え、私に嫌悪感を抱いていたとしても。雪代華の健康を、心と体のケアを彼女は仕事として任されているのだから。それならば、まず、私が取るべき行動は

「ネオお嬢様ぁ」

 扉の向こうから、そう声がした。晩御飯の準備を終えたというその報告に、私はベッドから立ち上がり扉に手をかける。目の前のその唇が言葉を紡ぐよりも早く、私はあのね、と口を開いた。

「ごめんなさい」

 私の謝罪に、その首が小さく傾く。

「この二日間、何も言わないでいて」

 騙すようなことをして、ごめんなさい。私のその言葉に、のどかさんはいいえと頭を横に振る。

「突然知らない場所で目覚めたら、驚いてしまいますよねぇ」

 ネオお嬢様にとっても予期せぬ出来事だったのですからぁ、仕方のないことですぅ、そう彼女は言うと

「のどか、さん?」

 すっと、その腕を伸ばして優しく私の頭を撫でた。そして

「怖かったですよね、心細かったですよねぇ」

 明かしてくださって、ありがとうございますぅ、とそんな言葉を並べる。感謝、なんて私はされる立場ではないのに。俯く私にのどかさんはあの、ネオお嬢様ぁとそう声を掛けて一つだけお聞きしても良いですかぁ?と続ける。

「お嬢様は、この世界の、どんなところがお好きだったのですかぁ?」

 どんなところ、とそう響いた声について考える。考えて、考えて、考えてみて、私は気が付いた。

「……分からない」

 『私』はこのゲームの、『百花繚乱 八重咲学院』の世界の、一体どこが好きだったのだろう。何度も何度も、それこそ自力で攻略本を作成することが出来るほどに、ゲームをプレイしたことは覚えている。『百花繚乱 八重咲学院』を愛している、その感情や感覚は思い出すことが出来るのに、具体的にどんな部分が好きだったのかは、まるで靄がかかったかのように思い出すことが出来ない。

「分から、ない」

 もう一度そう呟いた私に、のどかさんはなるほどぉ、と頷くと

「つまり、これは『ネオお嬢様』に直接繋がる情報だということですねぇ」

 思いがけず『私』探しが進みましたねぇ、とのどかさんはそう言って笑うと

「実はわたし今、少しだけ嬉しいんですぅ」

 ネオお嬢様のお陰で、とそんな言葉を続けた。

「うれ、しい?私の、お陰で?」

 そう、のどかさんの台詞を繰り返した私に、彼女は、はい、と肯定を響かせると

「お嬢様の視点になって、ネオお嬢様は高校生活を送っていたのですよねぇ。様々な方と出会い、様々な出来事をこなしていたのですよねぇ」

 その世界を、愛していたのですよねぇ、とのどかさんは私を見つめながら言う。

「それはつまり、お嬢様はこれから素敵な方々と出会いを果たすということがぁ、学院での毎日を楽しく送れるということがぁ、決まっているということですよねぇ」

 幸せな未来が、約束されているということですよねぇ、とのどかさんは嬉しそうに微笑む。

「これ以上に喜ばしいことなど、わたしにはありません」

 だからネオお嬢様、ありがとうございますぅ、そう言って彼女は小さく頭を下げた。紡がれたその言葉に、のどかさんのその雪代華に向けた愛情に、改めて私はあぁ、敵わないなぁとそう思う。のどかさんに頭を上げてくださいと頼む。再び交わる、視線。晩御飯にいたしましょうと向けられたその笑みに、こくりと私は頷いて、一つだけ訂正を申し出た。

「のどかさん、私はね」

 乙女ゲーム『百花繚乱 八重咲学院』。その理由は確かに、皆目見当もつかないけれど。私はこのゲームを

「愛してた、ではなく、愛しているんだよ」

 今だって、変わらずに。


 晩御飯はカレーライスだった。食事の後、のどかさんが淹れてくれた紅茶を飲んでいるその最中、お湯の張り終わりを告げる音楽が鳴り響いた。

「お疲れでしょうから、今日はお早めにお休みになられてはいかがですかぁ?」

 そんなのどかさんの提案に甘える形で私は浴室へと向かった。お風呂から上がりリビングへと戻ると、既にその空間は静寂に包まれていた。雪代華の部屋へと向けて足を進めていくと、階段を上がってすぐの部屋から光が漏れていることに気が付く。ゲーム内の情報を脳内に巡らせる。ここは、のどかさんに割り振られた部屋だ。扉の隙間からそっと中を覗き込む。雪代華の部屋とおおよそ同じ間取りのその空間で、のどかさんが一人、ベッドに腰掛けている様子が伺えた。今日一日を通して色々、そう、本当に色々なことがあった。眠る前に一言、彼女に感謝の言葉を伝えたいとそう思い、ドアノブへと手を伸ばそうとして、止めた。どこかぼんやりと、遠い目をしているのどかさん。その彼女の頬を一筋の涙が零れ落ちた。確かに、小さく動いた唇。彼女が何と紡いだのか、それを読み取ることは出来なかったが、想像は容易い。私はその光景を前に、静かに部屋の前を立ち去った。

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