6-2 脳の働き
どのくらいの間、そうしていただろう。じんわりと鼻に痛みを感じる。開き切らない、瞼。乱れた呼吸は少しだけ、落ち着きを取り戻した。お嬢様ぁ、とのどかさんは声に出すと
「朝ご飯を、食べましょう」
そう言って私の身体を解放した。さぁ行きましょう、と私の手を握って歩き出すのどかさん。その優しさに、私の頬を一筋の涙が伝った。
机の前に私を着席させて、その背中は台所へと消えていく。少しして机の上に、ずらりと料理が並べられた。今日はミルク、どうされますぅ?と響くその問いかけにそのままで大丈夫だと答えようとして、上手く言葉を発することが出来ないことに気が付いた。小さく首を横に振るった私に、分かりましたぁと続く声。それでは頂きましょう、とのどかさんはいつもと変わらない様子で私に言う。手を合わせて、頂きますぅ、と紡がれた彼女のその言葉に、私も何とか口を動かして声を絞り出す。
「……ま、す」
こくん、とそう喉を鳴らしながらコーヒーを含む。目の前に並ぶクロワッサン、コーンスープにスクランブルエッグ。それらが纏う柔らかな湯気に気が付いて、じんわりと、また私の視界が揺れた。
殆ど味を感じることがないまま、食事を終えて部屋へと戻る。そのままベッドへと、倒れ込んだ。ただ無気力に、あーあと思う。あーあ、あーあ、あーーあ。昨日の発見がぬか喜びで終わったこと、『私』を探す手立てがなくなったこと、その事実を一人で受け止めきれなくてのどかさんを困らせたこと。あれだけ長い時間泣いたのに、それでもまた止めどなく涙はこうして溢れ出る。ごめんなさい、とその言葉を私は再び紡いだ。この謝罪は雪代華へと向けたものだ。雪代華が雪代華として、生きてきた十五年が確かにここにはある。それなのに、ゲームの画面を通じて雪代華の一面だけを知った私が、彼女に成り代わろうとするだなんて。彼女として振る舞うことが出来る、とそう思っていただなんて。なんて私は、浅はかだったのであろう。別の人間として生きていくだなんて、到底不可能なことなのに。
「お嬢様ぁ」
と扉の外から声がした。ゆっくりと身体を起こし、何?とそう返事をする。
「扉を、開けてくださぁい」
いつものように部屋へと入ってこないのは、彼女なりの配慮だろうか。一度深く深呼吸をして、袖で涙を拭いながら、分かったと言葉を返す。扉を開けるとそこには、両手にマグカップを持ったのどかさんがいた。お邪魔しますぅ、とのどかさんは改めてそう言うとそのマグカップを一つ私に渡して、ベッドへと腰掛ける。そしてお嬢様ぁ、どうかこちらにと彼女の隣へ座るように促して
「わたしは、今、とっても困っているのですぅ」
そんな言葉を、私に向けた。いつもとは違う、その神妙な面持ちにどくん、と心臓が大きく鼓動を打つ。彼女の顔が直視出来ず、思わず目を逸らした。その先に映るのはホットミルク。ぎゅっと、その温かなマグカップを強く握り締めてあぁ、そうだよね、と私は思う。雪代華にとって立花のどかは、一番の理解者だ。のどかさんは誰よりも近くで雪代華を見守ってきた。ずっと、一緒に、彼女と人生を歩んできたのだ。そんな彼女にかかれば、私が雪代華でないなんてことは、
「お嬢様ぁ」
のどかさんの声にびくりと小さく身体が震えた。困惑を孕んだ声色で、わたし、とそうゆっくり言葉が紡がれていく。
「このままだと、クビになってしまいますぅ」
クビ、だなんて、突如放たれたその響きに咄嗟に私は視線を上げた。く、クビ?と、その言葉を繰り返した私にのどかさんははい、と頷いて
「解雇、の方が分かりやすいですかねぇ?」
職無しになってしまいますぅ、と悲しそうにそう言う。そして、お嬢様ぁ、と一度のどかさんは私を呼ぶと
「家政婦の役割は、ご存知ですかぁ?」
そんな疑問を、投げつけた。
家政婦の役割、突然のその問いにえっと、と言葉を詰まらせた。じっ、と向けられる視線に私は考えを巡らせる。家政婦とは、一般的に掃除、洗濯、料理など、依頼した家庭の日常の家事を家主に代わって行い、介護や必要な場合は病院へのサポート、子どもがいる家庭においては話し相手になる、など。多岐にわたる業務をこなす人のことを指す。業務内容、ではなく役割についての質問となると
「生活を支える、こと?」
「不正解ですぅ」
のどかさんはそう言うと、彼女のその顔の横にすっと人差し指を立て、左右に振った。
「生活とはぁ、生きていくことですねぇ。生きていく、となるとお金が必要不可欠。ですのでお嬢様の生活を支える、その役割はわたしではなく旦那様や奥様の管轄になりますぅ」
その説明になるほど、と私は頷く。そんな私を見てのどかさんは、ふふ、とそう微笑むと
「正解を発表いたしましょう」
そう言って一度、こくん、とその口にホットミルクを含んだ。家政婦の役割、それは
「健康を支えること、なのですぅ」
健康、と響いたその言葉を復唱する。
「そう、健康」
のどかさんはそう言うと、想像してみてくださいと口にする。
「不清潔なお洋服を着ていると、衛生的に良くありません。バランスの悪い食事ばかりだと、栄養素が偏りますぅ。そして、お部屋が汚れていると、他の事柄を意識していてもそれらの努力は無駄になってしまいますぅ」
お分かりですかぁ?とのどかさんは疑問符を響かせると、それだけではありませんとそう続ける。
「健康とは、決して体の状態だけを表す言葉ではないのですよぉ」
そう言ってのどかさんは、じっと私を見つめた。
「お嬢様ぁ、健康とは、何だと思いますかぁ?」
ぎゅっと、のどかさんは私の手を握る。私の答えを待つことなく、その唇は答えを紡いだ。
「心です」
心と体、この二つが元気である状態を指して人は初めて健康だと言えるのですよ、とのどかさんは言う。お嬢様ぁ、とそう口に出しながら指先に込められる熱。
「わたし、このままだと、クビになってしまいますぅ」
家政婦失格なのですよぉ、と紡ぐその声色は、優しい。お嬢様ぁ、と小さく笑みを浮かべて
「わたしを助けると、思ってぇ」
お話していただけませんかぁ、とそうのどかさんは私に言った。
私を見つめるその瞳から、逃れることは出来なかった。真正面から注がれる優しさに、思わず身がたじろぐ。まだ私は何も言っていないのに、慈愛に満ちた目でのどかさんは、大丈夫ですよぉ、とそう微笑む。限界、だったのだ。つい先程、他人に成りすますのなど無理だと、私の中に生じた諦め。のどかさんを傷付けたくない、だなんて自分勝手な理由で差し伸べれられた手を拒んだにも関わらず、結局私一人だと現状八方塞がりだ。私は雪代華ではない。私では雪代華にはなり得ない。ごめんなさい、とそう小さく呟いた私に
「大丈夫ですよぉ、お嬢様ぁ」
大丈夫と再度のどかさんは私にそう微笑みかける。逸らされることのないその笑みに
「あの、ね」
実は、とぽつりぽつり、私の口から言葉が溢れ出していった。
取り止めのないその吐露に、のどかさんは一度なるほどぉ、と頷くと
「とりあえずぅ、分かりやすくするために、今のお嬢様のことは一旦ネオお嬢様と呼びますねぇ」
どうですか?なんて、そんな提案を響かせる。ここがゲームの世界であること、それを私は自覚していること。私は雪代華ではないこと、私は『私』としての過去も雪代華としての過去も保持していないこと。考え付いた三つの可能性、失ってしまった手掛かり。決して纏りのあった話ではないと思うのだけれど
「信じて、くれるの?」
「はい、勿論」
信じますよぉ、と言ってのどかさんは笑う。そして
「つまりネオお嬢様は、ネオお嬢様がネオお嬢様足り得る、何かを見つけたいんですよねぇ?」
と確かめるようにそう言って言葉を、続けた。
「それなら一つ、方法があるかも知れません」
方法?とそう繰り返す私に、はい、とのどかさんは頷いてポケットからボールペンとメモ帳を取り出した。それを私に差し出して
「そこにお名前を、書いてみてください」
名前、と言われても
「私は、自分の名前も、覚えていなくって」
私の言葉にあぁ、いえとのどかさんは小さく首を横に振るうと
「お嬢様の、お名前です」
とそう言う。お嬢様のお名前、それはつまり、雪代華の三文字をこのメモ帳に書けば良いということか。分かった、とそう口に出しながらメモ帳とボールペンを受け取る。そこに確かに、雪代華とそう名前を記入して、はい、とのどかさんに向けた。そのメモを見つめた、彼女の眉が一瞬小さく、下がる。にっこり、のどかさんはその顔に笑みを浮かべると
「お嬢様は、本当に、お嬢様ではなかったのですねぇ」
ごめんなさい、さっきのお話ちょっぴりだけ疑っていましたぁと、謝罪の言葉を口にした。どうして名前の記入でその判断がついたのか、分からずにいる私にのどかさんは、言う。
「筆跡、ですよぉ」
ネオお嬢様の文字は丸っこくて可愛いのですねぇ、とそう続けるのどかさん。あぁ、なるほど筆跡、と私では考えつくことのなかったその基準に、ゆっくりと手の中のメモ帳へと視線を落とした。雪代華の書いたものとは違う、文字。雪代華とは違う、私の文字。見つけた『私』らしさ。『私』の証明。ぎゅっと、そのメモ帳を抱きしめた私を、のどかさんは優しい瞳で見つめた。




