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6-1 脳の働き

 目の前に広がっているのは、天井。この景色を眺めるのも、これで七回目になる。眠りから覚めても変わることのないこの現状に、慣れ始めている私がいた。さぁ、今日は、どうしようか。昨日と同様、魂の転移が行われている場合に備えて、『私』に繋がる情報を集める為の行動を取るのはどうだろう、そう考えながら身体を起こす。具体的な予定はとりあえず、朝食の後にでも組むことにしよう。そう思い、扉へ向けて足を進めようとした瞬間、ふと、私はある疑問を抱いた。目を覚まし、身体を起こしたその後は、真っ直ぐリビングへと向かって朝食を摂る。昨日も経験したこの流れ。全く同じ、この流れ。

 

 これは、この行動は、私が選んで行っているものなのだろうか?


 私は二日前、置かれたこの状況についてを整理する際に、魂を『身体以外で記憶を保持するもの』と仮定した。そう、身体以外で。本来、記憶というものは脳内に保存されている。保存するその情報に合わせて、海馬や大脳、小脳など、様々な部位に分けてその情報を刻む。また、記憶というものは顕在的記憶と潜在的記憶の二つに大別されるのだという。顕在的記憶とは、簡単に言うと頭で覚えた記憶だ。知識や思い出など。これらはこの顕在的記憶に分類されている。そして、潜在的記憶。これは身体で覚えた記憶のことを指す。例を挙げるとするならば、水泳。久しぶりの運動でも溺れることなく泳ぐことが出来るのは、この潜在的記憶が働いているからだ。解離性障害により健忘状態にある人が、自身が誰なのか分からなくても、食事や入浴、着替えなどをこなすことができる、これもこの潜在的記憶によるものなのだという。そう、身体に刻まれた、記憶。

 ぎゅっ、と寝巻きの裾を強く握った。この身体は、雪代華のものだ。雪代華として十五年間、生きてきた身体。この身体には、脳には、雪代華としての記憶がある。それは、つまり

「私が昨日、見つけたと思った『私』って…」

 全ては、虚構だったのだ。そこに『私』はいなかった。私が見ていたのは雪代華の影。最初から、『私』は存在してなどいなかった。

 雪代華の身体なのだから、この長髪を綺麗に一つに纏めることも出来る。日本語は問題なく使えるし、箸での食事が日常だ。あぁ、そして、この気付きによって、ある恐ろしい可能性が私の脳裏を掠めた。


 雪代華として過ごした潜在的記憶が、この身体に刻まれているとしよう。今の私が出来ること、それがどこまでその潜在的記憶の影響によるものなのかは分からない。私の昨日の発見が全て過ちだったのか、その判断すら出来ない。それならば、今度は逆を探れば良いのだ。つまり、雪代華が出来るはずのないことを私がやり遂げてみせれば、それは『私』の経験に基づくものだとそう分かる。

 雪代華の出来ないことは、何だろう。雪代華は十五歳。もし『私』が十八歳以上で、運転免許を所持していたのなら、普通自動車の運転を行うことが出来るかもしれない。運転が行えたその際は、それは確かに『私』に繋がる情報になり得るけれど、そもそも今、私のこの身体は雪代華のものなのだ。運転を行えるのか否か、それを試す術はなく、出来たとしても無免許運転、出来なかった場合は大惨事だ。そう考えると、年齢や資格などは関係ないもっと日常的な範囲で出来ることを探すべきだ。そう探すべき、なのだけれど。私には、雪代華の記憶がない。彼女の過去が、分からない。つまり、彼女の出来ないことを判断する術がない。何かに挑戦してみたとして、それが『私』の出来ることなのか、彼女の出来ることなのか、見定める材料を私は持ち得ていないのだ。


 あまりにも分からないことだらけ。そんな中皮肉にも、私はこの状況を適切に表す言葉を知っていた。詰み、だ。コンコンコン、と規則正しく刻まれるノックの音。お嬢様ぁ?とそう呼ぶ声に応えようとして、身体に力が入らないことに気が付いた。上手く声が出てこない。足が、腕が、指先が、小刻みに震えている。もう一度、お嬢様ぁ、と声がして扉が開いた。ベッドに座り込んでいる私に、おはようございますぅ、とゆっくり近付いてくる影。目と目が重なった一瞬、のどかさんはその双眸を大きくさせると、そっとその場にしゃがみ込んだ。

「また、怖い夢でも見たのですかぁ?」

 そう言いながら、彼女は私の両手を優しく握る。

「怖い夢を見たのなら、分け合いましょう」

 先日のリベンジを、果たす時が来ましたねぇ、と小さく笑うのどかさん。包まれている彼女の熱で、指先が温まっていくのが分かる。じんわりと広がっていく、体温。向けられたその眼差しに、私は、声を振り絞った。

「……ん、…さい」

 はい?と小さく傾げられる首。お嬢様?と静かな部屋に響いた声に、私は再度、その言葉を紡いだ。謝罪と否定の意を込めて。

「ごめん、なさい」

 ぽろぽろと涙が溢れ出す。のどかさんは驚いたようにその目を開くと、ハンカチを取り出してそっと私の頬へと当てた。心配そうに向けられた瞳に、益々涙が止まらない。本当はこの不安を、全部ぶちまけてしまいたかった。助けを乞いたかった。苦痛を苦悩を分け合って、楽になってしまいたかった。あぁ、だけど。それはつまりこの二日、彼女と過ごした私が、本当は雪代華ではなかったという事実を明かすことになる。雪代華だと偽っていたことを、偽って彼女の優しさを享受していたことを、彼女への裏切りを、明かすということになる。のどかさんを傷付けることになるその選択だけは、避けたかった。だから

「ごめん、な、さい」

 嗚咽混じりの声で、その言葉を、紡ぐ。心配をかけて、気丈な振る舞いをすることすら出来なくて、ごめんなさい。のどかさんを騙しているのに、自分勝手な理由でその優しさに応えることが出来なくて、ごめんなさい。ううん、そもそも。雪代華ではない私が、彼女に向けられたその優しさに応えたいだなんて。そんな烏滸がましいことを、思ってしまってごめんなさい。

「ごめ、んな、さい」

 繰り返し紡ぐ私の言葉に、のどかさんは小さく眉を下げると、ぎゅっと強く、私の身体を抱きしめた。

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