第9話:スバルの闇(前編)
スバルは、薄暗い部屋の片隅で、埃っぽいゲーム機のコントローラーを握っていた。18歳、元高校生。ボサボサの髪と、だらしないTシャツが彼の今の姿だった。机の上には、開封されたばかりの黒い封筒。「親の心子知らず法」の通知だ。冷たく光る金属製のカードと、簡潔な文面が書かれた紙が、スバルの心をざわつかせた。
「あなたは『親の心子知らず法』の対象者に選ばれました。この法律により、あなたは親権者である母親および同居する人物を殺害する権利を有します。実行した場合、1人につき2000万円の報奨金が支給されます。実行の有無、結果は一切公表されません。選択はあなたに委ねられています。ただし、決断の期限は2週間以内です。期限を過ぎての殺害は通常の犯罪として扱われます。」
スバルは封筒を放り投げ、ベッドに寝転がった。わけがわからねえ。2000万円だってよ。母親を殺せば、2000万円。同居する次男、ヒロも殺せば、4000万円。そんな金、スバルの人生では夢のまた夢だ。だが、スバルの心は、金だけでは動かなかった。もっと深い、暗いものが蠢いていた。
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スバルの人生は、不幸の連鎖だった。4人兄弟の末っ子。父親は元トラック運転手で、今はバスの運転手。今のバスは待遇だけは良いらしい。母親はスバルを産んだ後、回転寿司会社のパートから、頑張り続けて最近正社員に昇格した。長女は12歳年上、長男は8歳年上、ヒロは5歳年上。狭い家で、6人がひしめき合って暮らしていた。金はなかった。いつも、なかった。
スバルは子供の頃、優しく明るい性格だった。長女の友達と仲良くなり、彼女たちの家に泊まりに行ったりもした。だが、中学に上がると、ボロい家が恥ずかしくなった。当時流行っていたゲーム機も買ってもらえず、友達との距離を意図的に広げた。スバルは孤立し、暗い性格に変わっていった。
長男の不登校が、家庭をさらに壊した。中学時代、突然家で暴れ出し、物を投げ、壁を殴って破壊した。19歳で自殺したとき、医者から「精神疾患だった」と告げられた。スバルは長男の遺骨を、母親が大切に仏壇に飾るのを見ていた。だが、その記憶はスバルに重くのしかかった。
両親の離婚が追い打ちをかけた。父親は家を出て行き、連絡は途絶えた。長女は自立し、遠くで新しい生活を始めた。ヒロは不良になり、一時期家を出たが、中卒ニートとして戻ってきた。母親の稼ぎだけで、スバルとヒロを養うのはギリギリだった。
スバルは高校に進学したが、馴染めず中退。母親に甘やかされ、ゲーム機やラジオで時間を潰す生活に溺れた。やがて、スバルは家の中で暴君と化した。ヒロがアルバイトを始め、自立しようとすると、「お前、俺を殺すかもしれないから出ていけ!」と叫び、家具を壊し、長男の遺骨を庭に撒いた。母親はただ黙って、スバルのわがままを許した。母親がPCを買ってからは、スバルはネットに没頭したが、そこでさえ孤立した。誰も、スバルを必要としなかった。
「そろそろ、ケジメをつけなきゃな。」
スバルはネットの片隅で、誰とも繋がれず、そう呟いていた。
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「親の心子知らず法」の通知が届いたとき、スバルは一瞬、笑った。冗談みたいだ。母親を殺せば、2000万円。ヒロも殺せば、4000万円。そんな金があれば、ボロい家を出て、自由に生きられるだろう。新しいPC、新しいゲーム機。なんでも買える。だが、スバルの心は、別の思いで揺れていた。
母親は、スバルを甘やかしすぎた。どんなわがままも許し、どんな暴言も受け入れた。スバルがヒロを追い出し、長男の遺骨を撒いたときも、母親はただ泣いて、「スバル、ごめんね」と呟いた。その姿が、スバルを苛立たせた。なぜ、叱らない? なぜ、止めてくれなかった? スバルの心は、母親への愛と憎しみで引き裂かれていた。
ヒロへの感情は、もっと単純だった。スバルはヒロを嫌っていた。今まで不良だったくせに、急にアルバイトを始めて「まとも」になろうとしている姿が、鼻についた。ヒロが家を出ようとすると、スバルは不安になった。自分だけが、取り残される気がした。
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夜、スバルは台所に立った。引き出しには、錆びた包丁。母親は仕事から帰り、疲れた顔でソファに倒れている。ヒロはアルバイトでまだ帰っていない。スバルは封筒を握りしめ、考える。
(母さんを殺す? ヒロを殺す? 両方やるか?)
2000万円。4000万円。スバルの頭に、自由な生活が浮かぶ。だが、同時に、長男の遺骨を撒いた日の母親の涙がよぎる。スバルは包丁を手に持ったまま、動けなかった。
(俺は、何をしたいんだ?)
スバルの心は、暗い迷路に閉じ込められていた。期限は、残り13日。
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