第6話:ユミの選択(後編)
ユミは部屋の小さな机に座り、封筒を手にじっと見つめていた。16歳の高校生の心は、まるで嵐の海のようだった。「親の心子知らず法」の通知が届いてから、ユミの頭は混乱と葛藤で埋め尽くされていた。期限は2週間。今、1週間が過ぎようとしていた。残された時間は短い。ユミは賢い少女だった。感情に流される前に、冷静に考える必要があると自分に言い聞かせた。
封筒の中の金属製のカードが、蛍光灯の光を冷たく反射する。父親、義母、義理の兄妹──ショウタとアカリ──を殺せば、1人につき2000万円。4人で8000万円。あるいは、タカシの母親──ユミの実の母親──を殺せば、2000万円。そんな選択肢が、ユミの頭をぐるぐると巡った。
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ユミはまず、タカシのことを考えた。タカシはユミの異父兄弟。ユミが高校で初めて気になり、告白されて付き合い始めた男の子だ。だが、彼がユミの実の母親の息子だと知っているのか、ユミにはわからなかった。タカシはいつも明るく、ユミの過去や家庭の事情には触れなかった。もしかしたら、彼も知らないのかもしれない。あるいは、知っていて隠しているのか。
(タカシに聞くべき? でも、もし知らなかったら…私が言うことで、全部壊れるかもしれない。)
ユミはタカシとの関係を考えるたび、胸が締め付けられた。タカシの笑顔は、ユミにとって初めての恋のドキドキだった。だが、その裏に隠された真実──彼の母親が、ユミを捨てた実の母親だという事実──が、ユミを苦しめた。
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次に、ユミは自分の両親の離婚について考えた。物心つく前のことだ。父親はユミを引き取り、男手一つで育ててくれた。ユミは父親から離婚の詳細をほとんど聞いていなかった。「お父さんとお母さんは、合わなかっただけだよ。ユミのせいじゃない」と、父親はいつも笑ってごまかした。だが、ユミは感じていた。そこには、もっと複雑な事情があったはずだ。
(そろそろ、お父さんにちゃんと聞いてみるべきかな……)
ユミは父親に尋ねることを考えた。なぜ母さんは私を捨てたのか。なぜタカシを育てたのか。だが、そんな質問をすれば、父親を傷つけるかもしれない。父親はいつもユミを守るために、過去を封印してきたように見えた。
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ユミは新しい家族についても考えた。父親が再婚した義母は、優しくて穏やかだ。ショウタとアカリ、義理の兄妹も、ユミを「姉ちゃん」と呼び、慕ってくれる。ショウタは少しやんちゃだが、ユミが宿題を見てやると素直に耳を傾ける。アカリはユミの服を借りたがり、「姉ちゃん、似合う?」と笑う。彼らを殺すなんて、想像もできなかった。
(バレないとしても…お父さんを悲しませる。そんなこと、絶対にできないよね)
父親の笑顔が、ユミの頭に浮かぶ。小学校の運動会で、汗だくで応援してくれた姿。「ユミ、すげえぞ!」と叫んだ声。ユミは父親のために、いい高校、いい大学に進みたかった。父親を悲しませる選択だけは、絶対にありえなかった。
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だが、実の母親への思いは、ユミの心を複雑に揺さぶった。彼女はユミを捨て、タカシを育てた。ユミの人生を、こんなにも複雑にした張本人だ。ユミは、母親に会ったことはほとんどなかった。だが、タカシの話から、彼女が優しい母親であることは伝わってきた。それが、ユミの心をさらに混乱させた。
(もし、母さんを殺せば……2000万。タカシとの関係も、終わらせられるかもしれない)
ユミはそんな考えが頭をよぎるたび、吐き気を覚えた。復讐のために人を殺す? そんな人間に、自分はなりたくない。だが、心のどこかで、母親への怒りがくすぶっていた。
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期限が迫る中、ユミは父親に話しかけた。夕食後、リビングで義母がショウタとアカリを寝かしつけに行った後、ユミは勇気を振り絞った。
「お父さん、ちょっと話したいことがあるんだけど……」
父親はテレビを消し、ユミを見た。「なんだ、ユミ。いつになく真剣な顔してるな」
ユミは言葉を選んだ。「お父さん……お母さん、つまり、私のお母さんのこと。なんで離婚したの? 私、ちゃんと知りたい」
父親の顔が、一瞬曇った。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「ユミ、昔のことはな……。お父さんとお母さんは、価値観が合わなかったんだ。お母さんは、もっと自由に生きたかった。俺は、ユミを育てる責任を選んだ。それだけだよ」
「でも、母さんは…タカシを育ててるよね。私じゃなくて」
ユミの声は震えていた。父親は驚いたように目を丸くし、「タカシ? どうしてその名前を?」と尋ねた。ユミは全てを話した。タカシが学校の同級生で、付き合っていること。彼が実の母親の息子だと知ったこと。父親は静かに聞き、深くため息をついた。
「ユミ、すまなかった。話すべきだったな。お母さんは……新しい人生を選んだんだ。俺はそれを責められない。ユミ、俺はお前が大事だ。それでいいよな?」
ユミは涙をこらえ、頷いた。父親の言葉は、ユミの心に温かく響いた。だが、同時に、母親への複雑な思いが消えないこともわかっていた。
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期限最終日、ユミは決断した。封筒を手に、台所に立った。包丁はそこにある。父親、義母、ショウタ、アカリ。あるいは、タカシの母親。誰を殺せば、ユミの人生は変わるのか。だが、ユミの手は動かなかった。
翌朝、黒いスーツの男が現れた。ユミは封筒を差し出し、静かに言った。「断ります」
男は無表情で頷き、去った。ユミは封筒をゴミ箱に捨て、深く息を吐いた。父親を悲しませたくない。タカシとの関係も、自分で向き合う。実の母親への怒りは、いつか自分で消化するしかない。
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数年後、ユミは大学に進学した。タカシとは、結局、別れた。真実を話す勇気はなかったが、タカシの笑顔は、ユミの心に残った。父親と義母、ショウタ、アカリは、今もユミの家族だ。ユミは勉強を続け、父親の夢を支えるために、いつか自分の力で成功することを誓った。
(お父さん、ありがとう。私は、私の道を歩くよ)
ユミ(完)
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