第5話:ユミの迷路(前編)
ユミは自分の部屋で、机の上に置かれた封筒をじっと見つめていた。16歳の高校生、細い指で封筒を握る手が、わずかに震えている。封筒には「親の心子知らず法」と書かれた紙と、冷たく光る金属製のカードが入っていた。文面は簡潔で、冷酷だった。
「あなたは『親の心子知らず法』の対象者に選ばれました。この法律により、あなたは親権者である父親および同居する義母、義理の兄妹を殺害する権利を有します。実行した場合、1人につき2000万円の報奨金が支給されます。実行の有無、結果は一切公表されません。選択はあなたに委ねられています。ただし、決断の期限は2週間以内です。期限を過ぎての殺害は通常の犯罪として扱われます」
ユミの頭は混乱していた。2000万円。父親、義母、義理の兄妹──4人を殺せば8000万円。ユミの人生では想像もできない金額だ。だが、そんな選択を考えること自体、ユミの心を締め付けた。
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ユミの家庭は、複雑な歴史を持っていた。物心つく前に両親が離婚し、父親に引き取られた。父親は仕事で忙しかったが、ユミを愛し、男手一つで育ててくれた。小学校の運動会には、どんなに忙しくても必ず来て、ユミがリレーで走る姿を笑顔で見守ってくれた。「ユミ、すげえな! かっこいいぞ!」と叫ぶ父親の声は、ユミの自慢だった。
ユミは父親の期待に応えたくて、勉強を頑張った。経済的に私立中学は無理だったが、地元の中学で成績トップを目指した。いい高校、いい大学に進んで、父親に楽をさせてあげたい。それがユミの親孝行だった。父親も「ユミは父さんと違って頭いいからな。将来、なんでもできるよ」と笑ってくれた。
だが、高校に入ってから、父親の様子が変わった。ある日、父親が言った。「ユミ、父さんな、実は、付き合ってる人がいるんだ。もしかしたら、近く再婚するかもしれない」相手の女性には、連れ子が二人いた。ユミより年下の男の子と女の子。ユミに、歳の離れた義理の兄妹ができるということだった。
「お父さん、ほんとにあの人と結婚するのかな……」
相手の人の写真を見た。ユミは複雑な気持ちだった。全然悪そうな人には見えない。それに大好きな父親が幸せなら、それでいいと思った。でも、新しい家族が増えることに、どこか不安を感じていた。
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学校生活にも変化が訪れていた。ユミは地元で一番偏差値の高い高校に進学した。家から少し遠く、朝は早起きが必要だったが、努力が報われた気がして嬉しかった。そこで、ユミは初めて気になる男の子に出会った。タカシくん。背が高く、笑顔が優しく、文武両道を謳う学校でバスケ部のエースとして活躍する彼は、ユミの心をざわつかせた。恋愛なんてまだ早いと思いつつ、ユミは彼と話すたびにドキドキした。彼氏ではない。ただ、気になる存在。それくらいの年頃なら、普通のことだ。
だが、ある日、衝撃の事実が明らかになった。タカシの母親は、ユミの父親と離婚したユミの母親だった。タカシは、ユミの異父兄弟だったのだ。ユミは愕然とした。タカシは知らないようだったが、ユミの心は乱れた。母親は父親とユミを捨てて新しい家庭を作り、タカシを育てていた。その事実に、ユミは言いようのない怒りと悲しみを感じた。
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父親は結局、再婚した。新しい義母は、優しくて穏やかな人だった。連れ子の義理の兄妹──小学5年生の男の子、ショウタと、3年生の女の子、アカリ──も、ユミには礼儀正しく接してくれた。ユミは義母を嫌いになれなかった。ショウタとアカリも、どこか愛らしく、家族として受け入れようと努力した。
学校では、タカシの方から告白された。ユミは驚き、動揺した。ユミはタカシが自分の異父兄弟だと知っているのに、断れなかった。「嫌われたくない」という気持ちが勝ってしまい、ユミは「う、うん、いいよ」と答えてしまった。付き合い始めたものの、タカシの母親──ユミの母親──にバレたらどうなるか。ユミは恐怖に苛まれた。母親はユミを捨てた人だ。どんな反応をするか、想像もできなかった。
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そんなとき、「親の心子知らず法」の通知が届いた。ユミは封筒を手に、部屋で一人、考える。父親を殺せば2000万円。義母、ショウタ、アカリも殺せば、8000万円。そんな金があれば、大学に行けるどころではない。タカシとの関係を隠し、新しい生活を始められるかもしれない。だが、父親の笑顔が、ユミの頭に浮かぶ。運動会で応援してくれた声。義母の優しい手料理。ショウタとアカリが、ユミを「姉ちゃん」と呼ぶ声。
(そんなこと、できるわけない)
だが、心のどこかで別の声が囁く。母親──タカシの母親──を殺せば、どうなる? 彼女はユミを捨てた。ユミの人生を、こんな複雑なものにした。2000万円で、復讐できるかもしれない。タカシとの関係も、終わらせられるかもしれない。
ユミは机に突っ伏した。封筒を握りしめ、涙がこぼれた。期限は2週間。ユミの心は、迷路に迷い込んだままだった。
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夜、ユミは台所に立った。引き出しには、いつも使っている包丁がある。父親はリビングで義母とテレビを見ている。ショウタとアカリは、もう寝室で眠っているはずだ。ユミの手は、包丁に伸びそうになり、止まった。
(お父さんを、殺せる? 義母を? ショウタやアカリを? それとも……母親を?)
ユミの目は、封筒のカードを見つめた。冷たい光が、彼女の心を映し出す。ユミの選択は、まだ定まらない。
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