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第2話:ユカリの決断(後編)

ユカリの部屋は、いつもより静かだった。窓の外では、夜の虫が小さく鳴いている。彼女の手には、あの包丁が握られている。刃の表面に、ユカリの顔が映る。13歳の少女の目は、決意と恐怖が入り混じった、複雑な光を宿していた。


「親の心子知らず法」。その言葉が、ユカリの頭を支配していた。あの日、黒いスーツの男が去ってから、ユカリは何度も封筒を開いては閉じ、紙に書かれた文面を読み返した。期限は2週間。2000万円。母親とタケシ、2人を殺せば4000万円。そして、誰も知らない。誰も咎めない。ユカリの心は、揺れ続けていた。


---


ユカリは考える。タケシを殺したとしても、母親が変わるとは思えなかった。母親はいつも男に依存してきた。タケシがいなくなれば、また別の男を連れてくるだろう。そして、その男がまたユカリに手を上げるかもしれない。いや、ユカリだけなら、まだ耐えられる。彼女はもう慣れている。痛みも、恐怖も、屈辱も。だが、これから生まれてくる妹はどうなる?


ユカリの胸に、鋭い痛みが走った。まだ見ぬ妹。母親のお腹の中で、静かに育っている命。だがもし、私と同じ目に遭うなら。もし、次のタケシのような男に、汚され、傷つけられるなら。そんな人生、送るくらいなら。いっそ。


「生 ま れ て こ な い 方 が い い ん だ」


ユカリは呟いた。声は小さく、震えていた。だが、その言葉には、どこか確固たる意志が宿っていた。ユカリの目は、涙で滲みながらも、包丁の刃を見つめ続けた。


(ごめんね、名前も知らない妹)


ユカリは立ち上がった。カバンから、あの封筒を取り出す。金属製のカードが、冷たく光る。ユカリは一瞬、母親の笑顔を思い出した。5歳の頃、公園のブランコで笑い合った、あの瞬間。でも、その記憶はすぐにタケシの嘲笑と、母親の冷たい視線にかき消された。


(母さん、妹にどんな名前を付けるつもりだったんだろう?)


ユカリは、ふとそう思った。せめて、それだけでも聞いておきたかった。だが、その答えを知る前に、ユカリは決断しなければならなかった。


---


その夜、ユカリはリビングに立った。タケシはソファでビールを飲みながらテレビを見ている。母親はキッチンで、適当に夕食の準備をしている。ユカリの手には、包丁が隠されていた。心臓の鼓動が、耳の中でうるさく響く。


「ユカリ、なにボケッとしてんの。飯、まだかよ」


タケシの声が、ユカリを現実に引き戻す。彼女は一歩踏み出した。母親が振り返り、ユカリを見る。


「ユカリ? どうしたの、顔色悪いよ?」


母親の声には、ほんの一瞬、かつての優しさが垣間見えた。だが、ユカリの心はもう決まっていた。


「母さん、妹の名前、なんてつけるつもりだった?」


ユカリの声は、静かだった。母親は一瞬、戸惑ったように目を瞬かせた。


「え? 名前? まだ決めてないけど……なんで急に?」


ユカリは微笑んだ。ほんの少し、悲しげに。


「うん、ただ、気になっただけ。」


その瞬間、ユカリは動いた。包丁が、月明かりに光る。タケシが何か叫ぶ前に、刃は彼の胸に突き刺さった。母親の悲鳴が響くが、ユカリの手は止まらない。2度、3度、刃が空気を切り裂く。血が床に広がり、ユカリの手を濡らす。


母親が逃げようとしたとき、ユカリは彼女を追い詰めた。母親の目には、恐怖と混乱が浮かんでいた。


「ユカリ、なに!? やめて、お願い!」


「母さん、ごめんね。妹を守りたかっただけ」


ユカリの声は、ほとんど囁きだった。次の瞬間、包丁が母親の喉を貫いた。静寂が、部屋を支配した。


---


翌朝、黒いスーツの男が再び現れた。ユカリは血に濡れた服のまま、男に封筒を渡した。男は何も言わず、ただ頷いた。ユカリの手には、4000万円の報奨金が振り込まれたカードが握られていた。非課税。ユカリの新しい人生の、最初の資金。


その後、ユカリは施設に入った。成績は優秀だった。予備校に通い、勉強に打ち込んだ。誰とも深く関わらず、ただひたすらに未来を目指した。いい大学に入り、いつか、自分の力で生きていくために。


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数年後、ユカリは大学を卒業し、小さなアパートで一人暮らしを始めた。ある日、彼女は公園のブランコに座り、空を見上げた。5歳の頃の記憶が、ふと蘇る。「ユカリ、もっと高く漕いでごらん」。あの母親の声が、遠くで響く。


ユカリは目を閉じた。心の中で、妹に話しかける。


(ごめんね、名前も知らない妹。もし、いつか、私に娘が生まれたら……)


ユカリは微笑んだ。その娘に、妹に付けるはずだった名前を贈ろう。母親に聞けなかった、たった一つの約束として。


ユカリ・完

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