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第1話:ユカリの選択(前編)


薄暗い部屋の片隅で、ユカリは膝を抱えて座っていた。13歳の少女の目は、どこか遠くを見ているようで、焦点が定まらない。窓の外からは、隣家の犬が吠える声と、遠くの国道を走る車の音が聞こえてくる。部屋の中は静かだったが、ユカリの頭の中は嵐のように騒がしかった。


「親の心子知らず法」。その言葉が、ユカリの脳裏に焼き付いて離れなかった。数日前、黒いスーツを着た無表情な男が家を訪れ、封筒を渡してきた。中には一枚の紙と、冷たく光る金属製のカードが入っていた。紙には、簡潔にこう書かれていた。


「あなたは『親の心子知らず法』の対象者に選ばれました。この法律により、あなたは親権者である母親およびその配偶者を殺害する権利を有します。実行した場合、1人につき2000万円の報奨金が支給されます。実行の有無、結果は一切公表されません。選択はあなたに委ねられています」


ユカリは封筒を握り潰しそうになりながら、何度もその文面を読み返した。2000万円。母親と義父、2人を殺せば4000万円。ユカリがこれまで生きてきた13年間で、想像もできなかった金額だ。だが、問題は金ではなかった。ユカリの心は、もっと複雑なもので縛られていた。


---


ユカリの記憶は、いつも暗い。物心ついた頃から、母親の内縁の夫だった男──後に再婚して義父となったタケシ──の手が、ユカリの体に触れるたびに、恐怖が染みついていった。最初は「ただの遊びだよ」と笑いながら、ユカリの肩を叩いたり、髪を撫でたりしていた。だが、ユカリが7歳になる頃には、その手はもっと深いところに伸びるようになった。母親は見て見ず振りをした。ユカリが泣きながら訴えても、「タケシはそんなつもりじゃないよ」「お前が大げさに騒ぐからだ」と、ユカリを責めるだけだった。


小学校に入ると、ユカリの体に残るアザが教師の目に留まるようになった。「どうしたの、これ?」と聞かれ、ユカリはいつも同じ答えを口にした。「自転車で転んだの」。嘘だった。タケシの拳やベルトが、ユカリの体に刻んだ痕だった。ある日、担任が児童相談所に通報し、職員が家にやってきた。ユカリは引き離されそうになったが、母親は泣き叫んで抵抗した。「私の子を奪わないで! ユカリは私が育てなきゃいけないの!」と。結局、保護観察という形で事態は収束した。ユカリは家に戻されたが、タケシの暴力は止まなかった。むしろ、増した。


中学に上がると、暴力は形を変えた。タケシの手は、ユカリの体をさらに汚すようになった。夜、母親が寝静まった後、ユカリの部屋に忍び込み、彼女を押さえつける。ユカリは抵抗したが、力では敵わなかった。母親に訴えても、「お前が誘ったんだろ」と一蹴された。ユカリの心は、どんどんすり減っていった。


そして、半年前。母親が妊娠した。タケシとの子だった。「ユカリ、妹ができるよ。家族が増えるんだから、もっとしっかりしなさい」。母親はそう言って笑ったが、ユカリにはその笑顔が、まるで他人事のように見えた。タケシはさらに不機嫌になり、ユカリへの暴力は増した。「お前みたいなガキがいるから、俺の金が減るんだ」と吐き捨てる。ユカリはただ耐えるしかなかった。


---


そんな日々の中、「親の心子知らず法」の通知が届いた。ユカリは最初、信じられなかった。殺してもいい。殺せば、2000万円。誰も知らない。誰も咎めない。そんなことが、許されるのか。だが、封筒を握る手は震えていた。ユカリの心の奥底で、何かが蠢いていた。


夜、ユカリは台所に立っていた。手に持つのは、使い古された包丁。刃は少し欠けているが、十分に鋭い。テーブルの上には、母親とタケシが飲み散らかしたビールの空き缶が転がっている。リビングからは、タケシのいびきと、母親がテレビを見ながら笑う声が聞こえてくる。ユカリの心臓は、鼓動を刻むたびに重く鳴った。


(やれる。やれるんだ。誰も知らない。誰も……)


ユカリは包丁を握りしめ、リビングへ向かう。だが、足が止まった。頭に浮かんだのは、母親の顔だった。タケシと出会う前の、ほんの少しだけ優しかった頃の母親。ユカリが5歳の頃、公園で一緒にブランコに乗った記憶。母親が笑いながら「ユカリ、もっと高く漕いでごらん」と言った、あの瞬間。あの頃の母親は、どこに行ったのだろう。


ユカリの目は、涙で滲んだ。包丁を持つ手が震える。(殺せば、全部終わる。タケシも、母さんも……でも、妹は?)まだ生まれていない妹。ユカリと同じ血を引く、たった一人の家族。彼女まで失うことになるのか。


ユカリは一歩踏み出した。リビングのドアが、目の前に迫る。タケシのいびきが、まるでユカリを嘲笑うように響く。ユカリの心は、引き裂かれそうだった。2000万円。自由。新しい人生。それとも、過去の記憶と、わずかな希望。


---


翌朝、ユカリはいつものように学校へ向かった。カバンの中には、あの封筒が入っている。まだ、決断は下せていなかった。学校の廊下を歩きながら、ユカリは考える。(もし、母さんがタケシと別れてくれるなら。もし、昔の母さんが戻ってくるなら……)だが、心のどこかで、それが幻想だとわかっていた。


昼休み、ユカリは教室の隅で弁当を広げた。いつも一人だ。友達は少ない。誰にも本当のことを話せない。弁当箱を開けると、冷めたご飯と、母親が適当に詰めたウィンナーが目に入る。ユカリは箸を手に持ったまま、ぼんやりと窓の外を見た。


(2000万円。4000万円。新しい家。新しい学校。誰も私のことを知らない場所)


ユカリの頭に、鮮明なイメージが浮かぶ。タケシのいない世界。母親の冷たい視線のない世界。だが、そのイメージの先には、いつも血の色がちらつく。ユカリは目を閉じた。


放課後、ユカリは家に帰る前に、公園に寄った。ブランコに座り、ゆっくりと漕ぐ。風が、ユカリの髪を揺らす。5歳の頃の記憶が、ふと蘇る。「ユカリ、もっと高く漕いでごらん」。あの声が、耳に響く。ユカリはブランコを止め、膝を抱えた。


(母さんを、殺せるのか?)


その夜、ユカリは再び台所に立った。包丁を手に、じっと刃を見つめる。リビングからは、いつものようにタケシのいびきと、母親の笑い声。ユカリの心は、静かに、しかし確実に、何かを決めた。


---


翌日、黒いスーツの男が再び家を訪れた。ユカリは封筒を手に、男と向き合った。男は無表情で、ただ一言、「決断は?」と尋ねた。ユカリは封筒を差し出し、静かに言った。


「まだ、決められない。」


男は頷き、何も言わずに去った。ユカリは封筒を握りしめ、部屋に戻った。カバンの中に、包丁が隠されている。ユカリはそれを手に取り、じっと見つめた。刃の冷たい光が、ユカリの目を映し出す。


(いつか、決めなきゃいけない)


ユカリの物語は、まだ終わらない。


---

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