scene32 葛藤
【忘れる……はずがない】
暑い夏が過ぎ去り、朝と夕方の風が随分と涼しく感じられる今日この頃。私は変わらず家と幕内との往復の日々。
国民的イケメン俳優から告白された事、東京での出来事も最近の事なのに、もう遠い遠い過去の話にしようとしている私です。幕内三人衆も相変わらず元気で面白くて騒がしい。
そうそう……巷では『弁当屋幕内』に『有名美人女優が来た』とか『宝塚歌劇団の男役が来た』とか幕内の『幕の内弁当が人気俳優の好物』等々、都市伝説的な噂が出まわっていて、ファンの方が来店したり電話での問い合わせがあったりするけど、3人とも面倒くさいもんだから『ただの噂です』と軽くあしらっていた(噂ではなく本当の事だけど)
でもどらさん達は『サイン、貰っておけばよかったぁ!』と今更大後悔していた。
とにかく『弁当屋 幕内』は、今日も大繁盛である。
遠い昔の話かぁ……と考える私。平凡な、本当に平凡な日々。職場と家の往復の毎日、そんな平凡な毎日を望んでいたはずなのに。誰にも、誰にも言えないけど東京から帰ってきてから今日まで、千隼の事を考えない日はなかった。
もうずっと、ずっと其れこそ一日中、千隼の事で頭が一杯だ。
忙しい時間を過ぎた直後にお客さんが入ってきた時……厨房で仕事をしていて急にカウンターから名前を呼ばれた時……どれも『千隼が来た!』と思う瞬間。いつも彼がお店に来てくれていたタイミング。
(そうだよね、思えば東京から熊本まで六百円の幕の内弁当を買いに来るだけなんて……普通だったら、するわけないもんね……)
そう自分に言い聞かせる。
暇な時間、カウンターに立って外を眺めていると、彼が、あの満面の笑みを浮かべて入ってくるような……そんな気がしてたまらなくなる。
家に帰ってからもお母さんから呼ばれる度に彼から電話が掛かって来たんじゃないかって思ってしまう。テレビの中の「加藤千隼」を探してみようか。
(駄目! 見ちゃダメ!)
スマホで「加藤千隼」と検索してみようか……
(スマホ持ってない)
どらさん達も彼の事を忘れたかのように何も言わなくなった。あんなに色んな情報を教えていてくれたのに……あの時の村田さんはどこに行ったの?
(今、それが欲しいのに!)
それでも村田さんに時々……
「あのぉ……村田……さん?」
わざと意味深に話しかけてみるけど……
「ん? どうしたんだいきみちゃん?」
「い、いいえ! な、なんでもないです、ごめんなさい」
とても『千隼の事何か教えてください』なんて言えない。
大きな声で相談できないのは、私から『住む世界が違う、付き合えない』と言って別れたくせに、今更何言ってるのって怒られそうだから? いや、どらさん達は、そんな事、言わない。きっと応援してくれるし協力してくれる……そうであって欲しいな、言えないけど。
こんな事ばかり考える葛藤の日々……もう辛くて悲しくて、どうにかなりそうだった。美香先生も洋介も仕事が忙しいのか、お店にも全然来てくれないし。
そして今日もカウンターに立った私は、いつもの様にまた考えてしまっていた。
(あの入り口から……だめ、考えちゃだめ! 千隼は来ない! 絶対来ないって! さぁ仕事仕事っ! 仕事で気を紛らわせよう)
そう思いながらカウンター下の棚から予備のレシートロールを取り出し、立ち上がった……その時、何故か足の力が急に入らなくなり床にペタリと座り込んだ。
そこまでは覚えているのだけど……そこから記憶がなくなった。(内藤さんが見ていたらしいけど、再び立ち上がろうとして座り込みそのまま横に倒れたらしい)
薄れていく意識の中、頭の中で……どうしようもない私の思いが廻った。
『辛い……辛すぎるよぉ……こんな事なら東京になんか行かなければよかった。優しい貴子社長……真咲さん……そして彼のお父さん、お母さん、かわいいさくらちゃんとつばきちゃん。皆……皆に会わなければよかった。そして……彼にも。いいや……やっぱり会いたい! 会って話したい……もっといっぱい、沢山、沢山彼と話がしたい。ごめんね……千隼』
気が付くと私は休憩室のお布団に寝かされていた。内藤さんが隣にいて聴診器と血圧計をケースに片付けていた。
「軽い貧血と寝不足ね。きみちゃん! ちゃんと食べてる?」
「は……い」
小さく返事をした。
「その分だとあんまり食べてないし寝てないみたいだね、自分の身体なんだから自分しかわからないけど大事にしないとね!」
「は……い……すみません」
内藤さんにちょっとお怒り気味に注意され、小さい声で返事を返した。
「村ちゃん、内藤さんもう上がっていいよ。きみちゃんは、私が家まで送っていくから」
私は涙を流しながらお礼を言った。
「村田さん……内藤さん、すみません……ありがとうございました……」
「大丈夫だよきみちゃん! また明日ねっ!」
どらさんが寝ている私の顔を見て呆れた声で言った。
「本当に、きみちゃんは、よく泣くしよく倒れるねぇ」
「すいません……」
とまた誤って、また泣いた。
どらさんは、私の頭を撫でながら『クスッ』と笑って、そして……私に語り掛けるように静かに話しを始めた。
「きみちゃん……私はね……昔、保育園の先生だったのよ」
scene33へ…… どらさんが……保育士?




