scene2 ピアニスト仁科とし子からの誘い(私がピアニストにっ!?)
そして大学3年生も終わりに近づき、いよいよ大学生活最後の年、4年生に上がってすぐの時の事だった。
この時期になると殆どの学生が就職活動を優先させる為、私達4年生は、サークル活動をかなり制限しなければならなかった。だけど私は講義が終わった後、週3回ほど音楽教室に出向き、大好きなピアノを息抜きを兼ねて、弾きに通っていた。
ピアノを弾いているとすごく幸せな気持ちになれる。何も考えずにピアノの音色に体をゆだねていると、保育園の頃のきみ先生を思い出す……。とびっきりの笑顔でピアノを弾いていたきみ先生の事を……。
そんなある日の事、いつものように講義後、音楽室でピアノを弾いていると『コンコン』と扉をノックする音が聞こえた。
「あ、はい、どうぞ」
そう返事を返し、教室に入ってきたのは、音楽科ピアノ専攻教授兼吹奏楽部顧問の仁科とし子先生だった。ピアノが大好きな私がこの大学を選び、吹奏楽部に入ったのはこの方、仁科とし子先生がいたからと言っても過言ではない。
先生は長い期間、海外でピアニストとして活躍されていて帰国されてからも、有名なオーケストラでピアノを担当されていた経験もある本物のピアニストだ。
男女問わず学生達から人気があり長身で長い髪、小顔で目鼻立ちが整っていてかなりの美人。しかもおしゃれで今日のファッションは、花柄のワンピースで美人と言うより、美しい……と言った感じだ。私は吹奏楽部だったけど、直接会話をしたことは余りなかった(というか緊張するから余り話しかけられなかった)
そんなとし子先生が、今!私に向って、とても気さくに話しをかけてくれている!
「君子さん、こんにちはぁ!」
「あ、とし子先生、こんにちは」
私は席を立ち、深くお辞儀をした(かなりの美人、緊張する!)
「君子さん、いつもカノンを熱心に練習されていますね、職員室で話題になっていますよ、誰が弾いているんだろうと……」
そう言いながら私の近くにあった椅子を引き寄せ、それに腰かけた(益々緊張する!)
「はい、大好きなんです!この曲が!」
「そう!私もこの曲が大好きなの……ゆっくりと流れるような音色がね。あなたはどうして?」
「は、はい! 保育園の頃、大好きな先生がよく弾いてくれていたのです。私も先生みたいに弾けるようになりたくて、ずっと練習していますけど余り上手に弾けなくて……」
「ううん、君子さん、とっても上手に弾けているわよ!」
(やったぁ! 仁科先生に褒められちゃった!)
「ねぇ君子さん、よかったらこの楽譜で弾いてみない?」
そう言いながら、先生が小脇に挟んだファイルから出して渡されたのは『カノン』の楽譜だった。しかもよく見ると、私が使っている楽譜より3倍ほどお玉じゃくしが……多い……。
「この楽譜はね、数年前卒業発表会の時に私の教え子に頼まれて作った楽譜なの。ちょっと難しいけど挑戦してみない? 君子さんなら弾けると思うの……お手本に私が弾いてみるわね」
先生が立ち上って私と席を変わり、自ら『カノン』を弾き始めた。その滑らかに動く指使いに、私は言葉を失い食い入るように見入った。『本物のピアニストの演奏を、真横で見ることが出来るなんて!』と感激した。
そして先生が静かに弾き終わり、私の目を見て優しく微笑んだ。
「先生、有り難うございます! こんなに間近で先生の演奏が見られるなんて最高です、感動しました!」
私が手を叩きながらお礼を言うと、先生が私を見つめ、真剣な表情で聞いてきた。
「君子さん、卒業後の進路は決めているの? やっぱり保育士に?」
「はい、そう考えていますが……」
先生のその問いに、そう答えた。すると……
「君子さん……改まって聞くけど……ピアノ専攻の大学院に進むつもりはない?」
とし子先生の突然の質問に私は『何かの聞き違いかな?』と思いつつ先生に聞き返した。
「は、は、はい? わ、私がピアノ専攻の大学院に……ですか?」
先生は、私の聞き返しの言葉に頷き、冷静に返答した。
「私、君子さんにはピアノの才がある…と思っているの……。その才能を私の下で開花させてみない?もしいい返事が貰えるのであれば、私が推薦状を書きます。君子さん、考えてもらえないかしら?」
私が……音楽……ピアノ専攻の大学院へ……。少し……ほんの少しだけ心が動いた。でも……でも……
「先生、ありがとうございます。本当に嬉しくて私には夢のような……本当に夢のようなもったいないお話です。でも私には子どもの頃から、かみ……担任だった先生のような優しくて笑顔が素敵な先生になるという夢があります。お気持ちは本当に嬉しいのですが……」
私のその言葉を聞き、とし子先生は、『やっぱりだめか』みたいな笑みを浮かべた。そして…
「ふふっ……やっぱりそうよね! 無理言ってごめんなさいね! でも君子さんには素敵な夢があるのね、なんだか羨ましいわ!」
そう言いながらゆっくり立ち上り私の手に楽譜を渡し、笑みを浮かべながら言った。
「じゃぁこの楽譜、貴方に差し上げるわ! 弾けるように頑張ってね! そして弾けるようになったら絶対私に聞かせてよ!」
先生は、振り向きながら高く右手を挙げて音楽室を後にした。
もしも…この時……この話を受け入れていれば……私の人生は…大きく大きく、変わっていたのかもしれない……。
scene3へ…続きます…