9.氷桜の咲く道
朝から無防備なクリスタに抱き着かれて泣かれて縋られるなどという妄想でもなかなかできない稀有なシチュエーションにぶち当たったからか、ウィルフレッドはいろいろ吹っ切れていた。
その後のウィルフレッドはもう、初日の朝に受け取るには大きすぎる情報を処理するのに精いっぱいだったのだ。
抱き着いてきたクリスタの感触を何度も頭で反芻してしまう。
クリスタの甘い匂いと混じった、ウィルフレッドの家の風呂場の石鹸の香りも。
ウィルフレッドのシャツにしがみついて泣いたときの、押し殺すような嗚咽も。
何度も、何度も。
向かいの席でクリスタがホットケーキを頬張っているときも、紅茶を淹れるウィルフレッドをクリスタが眺めているのを見ていた時も、ずっと。
朝の衝撃に比べれば、クリスタを外出に誘うのも、段差を下りるのに手を差し出すのも、さしたる困難ではなかった。
そんなことよりも、クリスタへの心配が勝った。
クリスタの目の下にできたクマと、以前よりも細くなった腕、それから青白い顔色。
明らかに睡眠不足だし、栄養も足りてない。
クリスタが『死んだ』日は休暇の最終日だったはずだ。それなのに、不調のサインが消えていないのはどういうわけか。
極めつけは、クリスタの父親であるヴィンセントから届いた、強い睡眠薬と心配の手紙だった。
『夜、クリスタがうなされたり眠れずにいるときに使っていたものだ。もう二度と使わないでほしいと私は思っているがね。
クリスタは王宮でのことをほとんど話したがらない。半年に一度、帰って来るたびに痩せていくように思う。心配なんだ。なにかあったら、いつでも連絡を寄こしなさい。
娘が突然押しかけてすまない。どうか、クリスタのことをよろしく頼む』
今朝、クリスタは大好物のホットケーキを三枚しか食べなかった。
支度をして階段を降りてきたとき、目元が少し赤くなっていた。
勤め先の話題が出た時、ひどく落ち込んだ声音をしていた。
(第一王子殿下は何をしていたんだ? なにがクリスタをこんなに苦しめてる?)
考えるより先に、体が動いていた。
今のクリスタには休養が必要なのだと、なんとかして知らせたくて。
気づいたらクリスタを引き寄せて、抱き上げていた。
その軽さと、腰の細さが心配で、それにばかり気を取られて、クリスタの抗議が耳に入っていなかった。
―――おねがい、ウィル……下ろしてぇ……
その甘い懇願に、身をよじったクリスタの声に、ウィルフレッドは一瞬、いま自分がどこに居るのかわからなくなった。
あわてて地面にクリスタを下ろした。
自分を見、クリスタを見、自分がクリスタを襲っていなかったことに、まずは深く安堵する。
「ご、ごめん、いきなり触って……」
さすがに不快だっただろう。
手まではどさくさに紛れて繋いでいられたが、腰はまずい。アウトだ。バッチリアウトだ。
そう思って謝罪したら、思いがけない返事が返ってきてウィルフレッドは戸惑った。
「そーよ! 触るなら触るって一言言ってよ!」
「え、そこ?」
一言言えば、俺が触るのは別にいいのか?
「なによ」
「え?」
なんだろう、この敗北感。
イヤベツニ、勝ち負けトカジャナインダケドサ
ほんの少しも恋愛対象として見られていないか、気を許してるからウィルフレッドへのガードが緩いのか、あるいはその両方かもしれないけれど。
そんなことは置いておくにしてもだ。
ただでさえ膨大な情報を処理中だった今のウィルフレッドは、ご飯が出されたら条件反射で食べてしまう空腹の犬みたいなもんである。
その犬の目の前に、こんなにも無防備に骨付き肉が差し出されたら、どうなるか。
(あーーーー、うん。もう。もういいや。アホらしくなってきた。我慢やめる。やめます。無理だもんだってこんなの)
「や、うん。ごめん。次からはちゃんと先に言ってからにする」
「そーよそーよ」
「じゃあ、家帰ったら触るね」
返事はなかった気がするけれど、この際それはもういいのだ。
ウィルフレッドがクリスタに触れるのに必要な条件は、『一言言う』だけなのだから。
(こんなに無防備で、やっていけてんのか? まさかこんな調子で他の男にもほいほい触らせているんじゃないだろうな)
一抹の不安が脳裏をよぎる。伯爵令嬢にしては、触れられるのに慣れ過ぎていやしないか?
(まずいな……さっき家を出たのに、もう帰りたい)
帰って、早くクリスタに触れたい。
今日は、ウィルフレッドの馴染みの洋裁店に行く予定だった。
腕利きの針子がいるから、クリスタの普段着をあつらえてもらおうと思っていたのだ。
だというのに、おでかけはもう次回にしたらどうかとウィルフレッドの中の悪魔の声が囁く。
クリスタの服を買いたい。
でも、はやくクリスタに触りたい。
まだ出かけ先に着いてもいないのに、まさか序盤でこんな気持ちを味わうことになろうとは。
(くっそ……。頭冷やせよな、俺―――)
クリスタは幼馴染。クリスタは幼馴染。
幼馴染 幼馴染 幼馴染 幼馴染……。
脳内で何度も事実を再確認して、浮き上がる心に必死で冷や水をかけていく。
昨日と言い今日と言い、ここ数日の俺は少し浮かれすぎている。
クリスタがあまりにも可愛すぎるのだ。
「幼馴染、幼馴染、こいつは幼馴染……」
「え? ウィル……? なんて?」
「……なんでもない」
ぼそぼそと暗示を繰り返すウィルフレッドに、クリスタが若干心配そうな声で首を傾げた。
俺は他でもない君に翻弄され続けているんだけれども。
「ぅくしゅんっ!!」
クリスタが盛大にくしゃみをした。
それで初めて、ウィルフレッドはクリスタが薄着であることに気付く。
「てか、服それだけか。……気づくの、遅くなってごめんな」
長袖とはいえ、薄い生地のワンピース一枚では冬のグリーンシールズを歩けない。
家の中はウィルフレッドが作った魔暖炉のおかげでぽかぽかだが、外はそうもいかない。
ウィルフレッドは自分の着ていた厚手の上着をクリスタに着せ掛け、ついでにマフラーもクリスタの首にぐるぐる巻きつける。
裏地に羊の毛を使っているから、これならあったかいはずである。
「ぷは。ありがとうウィル。思ったより、ドレスがお金にならなくて。殿下が帰って来るまでに国を出なくちゃいけなかったから、鈍行の馬車じゃダメだったし。急ぎ便を使ったら、一番安い乗合馬車でもグリーンシールズまでで路銀が尽きちゃった」
もこもこになったクリスタが、寒さのせいか頬をリンゴみたいに赤くして、不安げにこちらを見た。
「でもいいの? ウィルは寒くない?」
見れば、クリスタの鼻先も手先もかじかんで真っ赤だ。
ウィルはこっそりクリスタに防寒魔法をかける。
「俺は十分あったかいからいいの」
むしろこれで頭も冷えて、ちょうどいいくらいだ。
煩悩も消え去ってありがたい。
ウィルフレッドの胸中など知らぬクリスタは、白い髪をなびかせ、蜂蜜色の目をきゅっと細めて、無防備な笑顔をウィルフレッドに向ける。
「それにしても、こっちの道をウィルと歩くの、はじめてだね」
「そうかもな」
「こっちの道って、氷桜が咲くんだねえ。知らなかった」
頭上に視線を移すと、氷桜の花弁が日に透けて、きらきらと瞬いて見えた。
クリスタに言われるまで、意識すらしていなかった美しい世界が、そこにはあった。
「そろそろ、春だねぇ」
「そうだな」
クリスタは深呼吸して、ん~~~~~と大きな伸びをして、温み出した午前中の空気を目いっぱいに受けていた。
そんな彼女が眩しくて、大事で、守りたくて。
ウィルフレッドの生きる理由そのもので。
「春と言えばさぁ、ウィルは昔から、あんまり春好きじゃないよね」
「んん、まあなぁ」
「あれって、なんでなの?」
氷桜が反射する、宝石みたいな木漏れ日の中、上を向いてクリスタは歩く。
時折冷たい風が吹いて、カッコつけすぎた俺は少し寒くて震えた。
クリスタは、ウィルフレッドが春嫌いなわけを知らない。当たり前だ。言っていないのだから。
「教えねー」
「これだからこの男は……」
「お? 喧嘩なら買うぞ?」
呆れた顔で返すと、ごめんごめんとクリスタが笑う。
言わなくたって、春なんて、嫌いに決まっているのだ。
春は嫌だ。クリスタが滅多にグリーンシールズに来ない季節だ。春から夏にかけてが社交界のシーズンだからだ。
クリスタが王太子殿下の婚約者候補になってからはもっと嫌いだった。
春になると、王宮で、ある儀式があるのだ。
通称・春の式典。
王族と、その伴侶や婚約者候補たちが、揃いの装いで国民に挨拶する儀式だ。
そこに名を連ねる者たちは一か月間、公の場では同じ装いで過ごす。
この季節はいつも、クリスタが王太子殿下の色を身に着けるから。
クリスタはウィルフレッドの手など届かない存在なのだと、春が来るたびに突き付けられるようで。
「わたしもね、あんまり春、好きじゃないの。特に初春のこの時期は……」
ウィルフレッドが巻き付けたマフラーに顔をうずめて、クリスタが言った。
自分から話を振った手前、少し気まずいのだろうか。
「―――……この時期は、王太子殿下の誕生日があるでしょ? 舞踏会やら夜会やら、夜通し昼通しあるし、そのくせ通常業務は滞っちゃいけないし、ずうっと笑顔でいなくちゃいけないし……」
「お、おう。やっぱり休めおまえは」
クリスタの目がどんどん光をなくしていく。
我慢強いクリスタでこれだ。王宮での日々は、よっぽど過酷だったのだろう。
「着たい服も、着れないし……」
最後にぼそりと付け加えられたそれは、実は一番のストレスだったのかも知れなかった。