8.手をつなぐことにした
ふかふかのホットケーキを堪能し、クリスタはウィルと二人、並んで洗い物を済ませた。
こんなに穏やかで、のんびりとした時間を過ごすのはいつぶりだろう。
いつもだったら、この時間は第一王子殿下の執務部屋で、嫌味を言われながら溜まった書類仕事をしている最中だ。
「クリスタ、もう少ししたら出かけるから支度しておいで」
クリスタが泡を流した最後のお皿を、ウィルフレッドが受け取りながら言った。
「おでかけ?」
「うん」
「やった! どこ行くの?」
クリスタの問いにウィルフレッドは答えず、曖昧に笑ってはぐらかした。
「ええ?」
「大丈夫だ、怖いところじゃない。じゃ三十分後に居間集合」
***
クリスタはウィルがあつらえてくれた部屋で、持ってきた鞄を開け、一着だけ持ってきていた装飾のないワンピースに袖を通した。
持っている服の中で、ドレスでも仕事着でもない普通の服はこれしかなかったのだ。
仕立てたのが何年も前なので多少の不安はあったが、クリスタの身長があまり変わっていないこともあって問題なく着ることができた。
(新しい普通の服、買わないとなぁ。ウィルにも食費や宿賃払いたいし……そのためにはまず勤め先を探さないと……)
「勤め先か……」
王宮でのクリスタの仕事は、他の王太子妃候補に比べれば多いほうだったと思う。
第一王子が宣言した政策を、クリスタが具体的な計画に起こし、現場とのすり合わせをし、関係各所に頭を下げて交渉をし、やっと実現可能なものになったところでユリウスに戻す。
もちろん、王太子妃候補としての政務や、茶会の企画準備片付け、式典の参加、妃教育といった通常業務と並行だ。
そうして打ち出した政策も、成功すればユリウスの手柄になり、失敗すればクリスタに叱責が飛ぶ。
何が一番きつかったのかと言うと、ユリウスに計画書を提出に行くときだった。
クリスタの名前で計画書が表に出ることはない。政策案はすべてユリウスの名前で議会にかけられていた。クリスタが自分で書いた計画書をユリウスに確認のため見せに行く。基本的にそのときに、名前だけがクリスタからユリウスに変わる。
計画書はいつも、考えに考えて、現場の人たちの意見を織り交ぜて、予算との兼ね合いも確認したうえで、出来る最大限を記載していた。
けれど、それでもユリウスの理想に足りないとき、クリスタの努力は簡単に否定された。
何十回ものやり直しの末、「もういい、私がやる」と言ってユリウスに取り上げられた計画書が、クリスタが最初に書いた計画書と同じ内容で、ユリウスの名前で上がっている。
こんなことは日常茶飯事だった。
半年の間に、全部で三日間の休暇がある。
その休暇をクリスタはいつも、仕事の忙しくない時期を狙ってまとめて取る。
実家で過ごす束の間の休息が、クリスタが唯一安らぐ時だった。その休暇が終わるのが、いつも恐ろしかった。休暇の終わりは、クリスタの嫌いなものの一つだった。
―――『やっぱり、クリスタは私が居ないと何もできないな』
『だからおまえはダメなんだ』
『こんな簡単な仕事でも、クリスタにはまだ早かったようだな』
『本当にやる気があるのか? 無能なんだから、せめて気概を見せてくれ』
『こうすれば簡単なのに、そんなことにも気づかないのか』
ふいに、ユリウスの叱責が思い起こされて、クリスタはぐっと唇をかんだ。
その説教の間、泣きそうになるのをこらえる癖だった。
泣いてしまえば、クリスタの負けなのだ。「おまえは泣けば済むと思っている」と言われて、もう一度、一番初めからクリスタを否定する言葉を聞かされるだけ。
「思い出すな……―――思い出すな思い出すな思い出すな……!」
そう思えば思うほど、ユリウスに投げつけられた無数の否定がクリスタの脳裏に浮かび上がってくる。
朝、ベッドから起き上がるときの絶望と、削られていく自信。ユリウスへ向けられる賞賛の声が、クリスタへの重責となって重くのしかかった日々……。
「―――……わ、ら、う!」
必死で頭を振って記憶を追いだし、指で口角を押し上げて無理やり笑みを作った。
今からウィルフレッドと出かけるのに、辛気臭い顔でいるのは嫌だった。
髪を梳かし、申しわけ程度に唇に紅をのせ、そのまま部屋を出る。
階段を下りていくと、すでにウィルフレッドが待っていた。
「お待たせ」
「………………」
しばらくの間、無言が二人の間に降りた。
ウィルフレッドが、じっとクリスタをみつめたまま言葉も発さずにいるからだった。
なぜか気恥ずかしくなって、クリスタは思わず視線を逸らす。
「な、なに、ウィル?」
「いや、別に何も……。―――俺も今降りて来たところだから、気にしないでいい」
なんじゃい! と言いたくなるのをぐっと飲みこむ。
なんだか、クリスタだけこんなに意識して、バカみたいだ。
「なら、いいけど……」
「よし行こう。少し歩くけどいいか?」
そう言って、ウィルフレッドは家の前の段差を下り、実に自然にクリスタに手を差し出す。
これは……
(つかまっていいよ、ってことかな)
真意を測りかね、手を取るのを躊躇するクリスタに、ウィルフレッドがきょとんとした目を向ける。
その顔に照れや緊張の色はない。
(ウィルは慣れてるのかな……こういうの)
これが、私だけに向けられる優しさであればいいのにと、この期に及んでまだ、クリスタはそんなことを考える。
クリスタが告白しなければ、ウィルフレッドだっていつか誰かと恋に落ちて、一緒になるのだ。
クリスタ以外の、誰かと。
この手はクリスタに向けられるものではなくなる。
(……今だけ。今だけだから―――)
己に必死でそう言い聞かせ、クリスタは差し出された手にそっと自分の手を重ねた。
瞬間、ウィルフレッドがクリスタの手を握る。優しく、けれどしっかりと。
クリスタが段差を下り終えても、ウィルフレッドは繋いだ手を放さなかった。
「うぃ、ウィル! て、てて、手……!」
「んー?」
「あの、その、つ、つつつつ」
繋いだままで、いいの……?
そう聞こうと思うのに、言葉がうまく紡げない。
やっぱりこの男、女性に慣れてなんていないんじゃないか? 軽々しく気を持たせないためにはどこで手を放せばいいのか、経験豊富な男の人なら多分知っているだろうそのタイミングを、さっきから逃しまくっている。
でも―――そのうっかりに、今だけ、クリスタは甘える。
「つ……勤め先を、探さなくちゃ。早いうちに」
結局、そんな風に誤魔化した。
ウィルフレッドと手をつないでいられる誘惑には、大抵の場合のクリスタは耐えられない。
「おまえな……もう少し休んでからの方がいいと思うぞ。王太子妃教育は激務だったって聞いた。今はまだ、長い休みだと思ってのんびりしろよ」
クリスタが苦し紛れにふった話題に、ウィルフレッドが心配そうな顔をした。
「で、でも……」
いつまでもウィルフレッドに甘えるわけにもいかないだろう。
そう言おうとしたクリスタの唇を、ウィルフレッドの人差し指がとめる。
「でももなにもねーの。クリスタ、王宮では本当にちゃんと休めてたのか? あったかいご飯、食べられてたのか? それにしては顔色はあんまりよくないし、くまはひどいし、腕とか細いし。今朝シュヴァルツァーの家から届いたおじさんからの手紙も、おまえの心配ばっか並んでたんだぞ」
繋がれた手が、くんと引かれた。
ウィルフレッドの両手が腰に添えられたかと思うと、そのまま抱き上げられる。
「え!? な、ウィル、下ろして!」
「ホットケーキも、いつもは十枚くらい平らげてたのに、今日は三枚だし。こんなに軽いんじゃ、そりゃ心配にもなるだろ?」
「―――ん、も、わかったっ! わかったから! 下ろして……」
触れられたところが、じんと熱い。
恥ずかしい。けれどそれも、きっとクリスタだけ。
こんな貧相な体に、ウィルフレッドは何も思いはしないだろう。
だからなおさら、恥ずかしい。
「おねがい、ウィル……下ろしてぇ……」
思わず懇願すると、先ほどからびくともしなかったウィルフレッドの指が、ピクリと動いた。
少し、くすぐったい。
クリスタが身をよじると、ウィルフレッドは可及的速やかに、けれどそっと、クリスタを地面に下ろした。
「ご、ごめん。いきなり触って」
しょんぼりとうなだれるウィルフレッドに、クリスタは腕を組みながら同意を込めて頷く。
「そーよ! 触るなら触るって一言言ってよ!」
「え、そこ?」
ウィルフレッドが呆気にとられたような顔でクリスタを見る。
何に驚いているのか知らないが、ここは断固として譲ることはできない。
「なによ」
「え?」
心の準備も何もしてないのに、いきなり好きな人に抱き上げられるとか、普通に羞恥で身が持たない。
それをわかっているのかいないのか、ウィルフレッドはなぜか少しの間沈黙して、それから頷いた。
「や、うん。ごめん。次からはちゃんと先に言ってからにする」
「そーよそーよ」
「じゃあ、家帰ったら触るね」
じゃあ、家帰ったら触るね?
え?
クリスタが状況を理解するより先に、ウィルフレッドは再びクリスタの手を取って歩き出した。
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