5.グリーンシールズの魔法使い3
クリスタは、幼い頃からよく予知夢を見た。
と言っても、それは断片的で、曖昧で、実際には起こらないことだってある。目覚めた後に残るのは残滓のようなぼんやりとした記憶だけ。
よく見る時期もあれば、まったくと言っていいほど見ない時期もある。
なにしろ、予知夢を見るのは赤ちゃんの頃からなので(その頃のことまでは流石に記憶にないが)、そういうものなのだと思っていたし、みんなそうなのだと思っていた。
五つの頃までは何かにつけて未来予知を口にしていたらしく、ずっとお世話になっている侍女には勘のいい赤子だったと言われた。
やがて、それが普通の事ではないのだと知って黙っているようになったが、予知夢は気まぐれにクリスタの眠りに入り込んだ。
小さなころから、ずっと見てきた夢がある。
それは決まって、どこか遠くで、あの人の声が聞こえるところから始まる。
―――クリスタ。
その人が、自分の名前を呼ぶのが好きだ。
名前を呼ぶとき、決まって見られる彼の笑顔が好きだ。
―――おまえなぁ……あんましひっつくな邪魔くさいから
そう言いながらも、クリスタが抱きつくと、呆れつつも柔らかく細められる瞳が。
彼の頬にキスするとき、背が届かないクリスタの体を愛おしそうに持上げる腕が。
「しょうがないな」と言うときの、たまらなく甘い表情が。
夢の記憶の中で、「その日」はいつも雨が降っている。
彼はどうしても外せない仕事があると言って、朝早くに家を出る。
『いってきます、クリスタ』
囁くような声だけが、ぼんやりとクリスタの記憶の中で漂う。
ほとんど寝たままで『いってらっしゃい』と返した。
彼の手が、クリスタの頬をそっと撫でて、離れた。
そのぬくもりも、息遣いも、仕草も。
もう二度と、見られないのに。
もう二度と、聞けないのに。
『……愛してる、クリスタ』
寝ている私の耳に触れる、甘い音も。
待って。
イヤだ。
行かないで。
起きなくちゃ。起きて、彼を引き留めなくちゃいけないのに―――。
のんきに眠る私を、夢の中で俯瞰で見ている自分。
なんて無力で、今更なのか。
見る時々によって、最後に耳にする彼の言葉は少しずつ違っていた。
でも、その全部が果たされない。
『できるだけ早く帰って来るから』
うそつき。
『帰ったら、クリスタの好きなコーヒー淹れてやるから』
うそつき。
『心配性だな、クリスタは。―――大丈夫。俺はどこにも行かないよ』
うそつき、うそつき、うそつき……!
―――ウィルフレッドの、うそつき。
―――
光の中で目が覚めた。
ウィルフレッドが譲ってくれた寝室の天井が視界を埋めている。
窓から見えた山羊月の空は青くて、かすかな初春の風が冷えた部屋を通り抜ける。
雨上がりを知らせるようにそこらじゅうが水の気配で満ちていて、しんと静まり返った家には、クリスタ以外人の音がしなかった。
ウィルフレッドに貸してもらった、彼の匂いのするだぶついたシャツが肩からずり落ちる。
先ほどの夢の記憶が脳裏をよぎる。
「ウィル―――?」
呟くように名を呼んだクリスタの声に、返事はなかった。
***
「いい加減帰ろう」
しばらく湖の前でうずくまっていたウィルフレッドは、ようやく重たい腰を上げた。
外気で何とか冷ました頬は、しかしまだ熱を持っていた。
想像してほしい。家に帰ったら、好きな女の子が待っているのだ。
ほかでもない、ウィルフレッドを待っているのだ。
その状況で無表情だの無感情だのを貫ける男が居るのなら教えてほしい。
気をつけなければ、ウィルフレッドの口元は今にもにやけてしまいそうなほど。
(いや待て落ち着け冷静になれ俺)
クリスタが自分に微笑みかけながら『おかえり』なんて言うところ想像するんじゃない。
『どこ行ってたの』って頬を膨らましてくれるかもなんてそんなこと。そもそも出迎えてくれるなんてそんなわけない。
ウィルフレッドは慣れたもので、浮足立つ己の心に冷や水をぶっかける。
(どーせ寝てんだろ。こちとら幼馴染歴イコール年齢だぞ。読めてんだよ)
そうして、ウィルフレッドの持ちうる全てで何事もなかったかのような顔を作り、何食わぬ顔で家の玄関扉を開けた。
「ただいま」
「ウィルっ!」
開けた瞬間、聞こえてきたのはクリスタの声で。
なにかがウィルフレッドに飛び込んでくる。
一瞬、何が起こっているのか分からなかった。
ふわりと、ウィルフレッドの風呂場の石鹸が香った。
おそるおそる自分の腰のあたりに目をやると、クリスタがウィルフレッドに寝巻一枚で抱き着いていた。
もう一度言おう。
抱き着いていた。
「―――は!? ちょ、おま……なにやってんの!?」
昨晩ウィルフレッドが貸した、彼女のひざ丈までありそうなダブダブのシャツの隙間から、白いうなじと谷間が見えた。
ガン見した(もうこれは許してくださいほんともう許してください俺が悪かったですごめんなさい)。
今すぐその白に口づけて、赤い跡をつけてやりたくなるのをどうにか……本当に、どうにか堪えて、ウィルフレッドは腰に抱き着いてきたクリスタを慌てて引っぺがす。
引っぺがされたクリスタはへにょりと眉を下げてウィルフレッドを見ていた。
いつもは強くまっすぐにウィルフレッドを見るオレンジの瞳が、今は心細そうに揺れている。
「ウィ、ル……よか、よかった―――いなくなったわけじゃ、なかった……」
クリスタは突然そんなことを言い、しまいには、ウィルフレッドのローブの裾を掴んだままで泣き出してしまった。
自分が何かやらかしてしまったのだろうことは分かるが、どれが原因かさっぱりわからない。
とりあえず、クリスタの涙を止めたくて、ウィルフレッドは彼女の頬に触れた。
いくつも流れる大粒の涙を、ウィルフレッドの親指で拭う。
「どうした? なにかあったのか、クリスタ」
『居なくなる』だなんて、穏やかではない。
一度呼吸をきちんと整え、幾ばくかの冷静を取り戻したウィルフレッドはクリスタに問いかけた。
クリスタはぼろぼろ泣きながら、つっかえつっかえに言う。
「怖い夢、見た……。あさ……朝起きたら、ウィルが、いなくって。どれだけ待っても、帰って、来なくて……。そこで目が覚めて、そしたら、こっちでも、ウィル、が、居なくて―――」
もう居なくなっちゃったかと、思った。
そう言って、クリスタはもっと泣いた。
寝起きでウィルフレッドを探していたのだろうか。いつも綺麗に整えられた柔らかいプラチナブロンドの髪は、今はふわふわとあちこちに跳ねて絡まっている。
家中を探し回ったのか、そこかしこの扉は開きっぱなしだ。
クリスタが必死になって自分を見つけようとしていたのかと思うと、歓喜で胸が締め付けられるように痛かった。
クリスタの頬を、手の甲でそっとなぞった。
そのウィルフレッドの手にクリスタの手が重なる。
ウィルフレッドの手のひらに預けるみたいに頬を擦り寄せて、クリスタは目を閉じた。
「心配性だな、クリスタは」
ウィルフレッドが笑うと、クリスタが弾かれたように顔を上げた。
どこか愕然とした表情で、オレンジの瞳をいっぱいに見開いて。
小さく震える身体を、ウィルフレッドは抱きしめた。
しばらくすれば手の届かない立場になってしまうだろうクリスタを、幼馴染だからと言い訳して。
「―――大丈夫。俺はどこにも行かないよ」
クリスタが、ウィルフレッドのローブの裾をきゅっと握って、ウィルフレッドの胸に顔を押し付ける。
それは決して強くはないのに、ウィルフレッドにとってはこれ以上ないほどの拘束力を発揮した。
クリスタのやわらかい唇に口づけて、なんならそのまま押し倒してしまいたい。全身に、俺のものだと証をつけてしまいたい。
腕の中に閉じ込めて、一晩中名前を呼んで、『愛している』と言えたらどんなに―――。
そんな衝動を必死で押し隠して、ウィルフレッドの持ちうる全ての理性でもって抑え込んで、たった一枚のシャツ越しに生々しく伝わる感触を必死で脳内から消して。
我慢できなくなる、ぎりぎりで離れた。
少しだけ、名残惜しげになった。
「……てーか、寝巻いっちょでうろついてんなよな。俺じゃなきゃ襲われてんぞ。も少し警戒心というものをだな……」
うるさいくらいの鼓動を軽口でごまかして、ウィルフレッドは台所に向かう。
今ならコーヒーをブラックででも飲めそうだ、と、そんなことを思いながら。