3.グリーンシールズの魔法使い1
ニワトリが朝を告げるころ、まだ日も昇りきらぬうちに誰かが家の扉をたたいた。
その家に住む魔法使い、ウィルフレッドは、何度無視しても懲りずにノックする訪問者に、ついに耐え切れず、渋々起き上がって寝ぼけまなこで扉を開けた。
「やほ」
「え、なに、どしたの」
扉の前に立っていたのは、幼い頃からの幼馴染で伯爵家のお嬢さま、クリスタ・シュヴァルツァーだった。
変なおばさんに「壺を買いませんか」と言われるつもりでいたウィルフレッドは、目の前の状況に反応できないまま、数瞬沈黙する。
眠気と苛立ちで眇めていた緑眼は、今は丸く見開かれていた。
「そのぅ……お知らせしたとおり、死にに来ました」
「お帰りはあちらです」
開口一番、ばつの悪そうな顔をしたかと思えばそんなことを言い出した幼馴染に、ウィルフレッドは家の門を指し示した。
クリスタは分かりやすくがっくりと肩を落とし、口を尖らせる。
「ケチ」
「誰がケチだ誰が」
「困ってる幼馴染を真冬のお外に放置ですかそうですか」
「仮にもこれから宿を世話になろうという人間の発言とは思えん」
「こんなこと、ウィルにしか頼めないんだよ……」
懇願の上目遣いに、ウィルフレッドは、うっと言葉に詰まった。
ウィルフレッドだって、健康な19歳である。綺麗な女の子に可愛い仕草をされれば、ぐらっと来るのだ。
しかしここでほだされてはならない。このあと苦しむ羽目になるのは他ならぬウィルフレッド自身である。
「つーか、フランカのために戸籍上死ぬことにするっつー手紙の内容は本気だったのか。せっかく王太子妃の内定が決まってこれからだってときに、本当にそれでいいのか。おまえ、あんなにがんばってたのに」
「…………」
破壊力のかたまりみたいな『お願い』をなんとか躱したウィルフレッドのもっともな反撃に、今度はクリスタが言葉に詰まった。
それぐらい、これまでのクリスタの努力は並大抵ではなかったのだ。王太子妃候補として、次期王妃候補として、それこそ血を吐くような努力をしてきたのだクリスタは。
王宮のセキュリティ魔法の管理もしているウィルフレッドが、(セキュリティ魔法のかけ直しのために)たまたま出向いた王宮で、たまたま通りかかった謁見の間の会話を(ものすごく精密な盗聴魔法で)耳にしたのでなければ、ウィルフレッドは今もまだクリスタの王太子妃内定の話を知らないままだった。
ウィルフレッドはクリスタの婚約者内定の知らせを喜びとともに受け止めたのだ。
たとえそれが、ウィルフレッドの手が到底届かない位置に彼女が行ってしまうという最終通告であっても。
けれど、巻き込まれたからには納得のいく説明をしてもらわなくてはならない。
「『大きくなったら、王子様のお嫁さまになる!』が口癖だったろ、おまえ。この計画を強行するなら、この先王子様に嫁ぐどころかお目にかかれすらしないぞ。夢に見るほど憧れていたんじゃないのか」
クリスタは昔から、ことあるごとに夢の話をした。
その夢に出てくるクリスタの王子様は、大層かっこいい、と。
将来、その王子様と結婚して幸せに暮らすのだと。
心配だった。
クリスタは自分が夢見る幸せ全てを投げうってでも、フランカを守ろうとしているんじゃないかと。
ウィルフレッドは、フランカと第二王子の婚約云々の騒動などより、クリスタの方が大事なのだ。
クリスタに、夢にまで見た幸せを諦めさせるくらいなら、すぐにでも家に帰してしまえと思うほどには。
クリスタは一瞬、何か言おうとするかのように顔を上げて、今度はしょんぼりと肩を落とした。その様子にウィルフレッドの良心が痛む。
でも、今なら。
今ならまだ、間に合うから。
クリスタのこの先の人生の修正も、期待しそうになる心に冷や水をかけることも容易いから。
だというのに、当の本人の薄橙色の瞳は今、どうしてかふてくされたような色をしている。
しばらく沈黙していたクリスタは、わけを聞くまで扉を譲ろうとしないウィルフレッドを見て諦めたのか、やがて渋々と口を開いた。
「…………べつに、フランカのためじゃないよ」
「本当に?」
「本当だよ。フランカはそんなにやわじゃない。あの程度の邪魔者、私がわざわざ首を突っ込まなくても、フランカが自分でなんとかするもん」
存外あっさりと妹の分析を口にするクリスタは、いたって冷静だった。
どうやら、周りが見えなくなっているわけでも、やけになってここまで来たわけでもないらしい。
「私がフランカに頼んだの。この状況を利用させてって」
「そりゃまた、なんで?」
「私の、一番欲しいもののため」
ふ、と一瞬時が止まったかのような心地が、ウィルフレッドに降りかかった。
一拍遅れて、止まっていたのは自分の呼吸だということに気付く。
クリスタは、ウィルフレッドの目をじっと見ていた。
まるで、誓いを口にしているようだとウィルフレッドは思った。
「一番欲しいもの、ねぇ……」
ウィルフレッドはひとつため息をつき、身体をひねって正面からずれた。
クリスタに道を開ける為だ。
幼馴染への挨拶は、ここら辺が潮時だろう。
「はいはい、わぁーったよ。どーぞ」
「わぁい」
先ほどの真剣な面持ちから一転、ぱあっと顔を輝かせたクリスタは、つゆほどの警戒心も持たずに家に上がり込んでくる。
そして、勝手知ったるという顔で居間に置かれた冷蔵庫を開けた。
これはウィルフレッドが発明した魔法具で、暑い季節でも冷たい温度を保つことのできる優れものだ。
そんなに急いで何を冷蔵庫に仕舞っているのかと思って見れば、王都の有名店のケーキだった。アップルパイとベリータルトが特に絶品だというその店の噂を耳にしたことがある。
どこまでも無遠慮なくせに、ウィルフレッドの好物がベリータルトであることを覚えているあたり、変なところで律儀なやつだよなとウィルフレッドは思う。
「ウィルー?」
まだ背丈も変わらぬ頃からの付き合いである彼女だけは、ウィルフレッドのことを『フレッド』ではなく『ウィル』と呼ぶ。
そう呼ばれるたびに胸が締め付けられるほど痛むようになったのは―――それを、押し殺すようになったのは、一体いつごろからだろう。
「なんだよ。なんか飲むのか?」
「ウィルが淹れたコーヒー飲みたい」
顔を洗っていたウィルフレッドは、まだ寝ぐせだらけの髪を整えるのをあきらめ、クリスタに呼ばれてキッチンへと戻った。
戸棚に置いてあるコーヒー豆を取り出し、ミルで挽きながらお湯を沸かす。
クリスタは、湯をかけると粉が膨らむのが面白いと言ってウィルフレッドがコーヒーを淹れるときは、決まってずっと眺めていた。
もちろん今日も例に漏れず眺めに来て、どこからか持ち出してきた椅子に座って待っていた。
よく飽きないものだ。
お湯を沸かしている間に、厚切りのパンをトーストし、温めたフライパンで卵二つとベーコンを焼く。今朝採れたレタスをちぎり、トマトを切って皿に盛る。
ウィルフレッドの朝食は大抵いつも同じメニューだ。
「おいしそう」
「そりゃどーも。昨日の朝飯とまるっきりおんなじメニューだけどな」
ご飯を作ると、クリスタはいつも喜ぶ。
ウィルフレッドが料理を覚えた理由は、それだけだ。
挽いたコーヒー豆に湯をかけると、香ばしい香りが部屋中に一気に広がる。
コーヒーは特段好きではないが、この香りだけは悪くないと思う。
「本当クリスタはコーヒー好きだよな。こんな苦いのの何がいいんだ」
「とか言っちゃって。いつ来てもキッチンにコーヒー豆が置かれてるの、知ってるんだから」
ウィルフレッドが言うと、クリスタは得意げな笑みを浮かべる。
『本当はウィルもコーヒーが好きなんでしょう』みたいな顔をされても困る。
「豆を置いてんのは、俺がコーヒー好きだから~とかじゃないからな」
ウィルフレッドがそう言うと、クリスタの勝ち誇ったような顔が驚いたときの表情に変わる。
今の今まで、ウィルフレッドはコーヒーが好きなのだと信じていた顔だ。
「え、うそ」
「ほんとだよ」
心外だと目を逸らすと、クリスタはぱちぱちと瞬いた。
まごうことなき真実である。
「じゃあなんで?」
「…………クリスタは砂糖いらなかったよな」
その質問には答えず、ウィルフレッドは戸棚から二つカップを取り出した。
自分が使う方には、温めておいたミルクをたっぷりと角砂糖を二つほど入れて、ほんの少しだけコーヒーを混ぜる。
クリスタにはブラックのまま手渡した。これの何がおいしいのかは、正直まったくわからない。
マグカップを差し出すと、ぽかんと口を開けていたクリスタは我に返ったかのように礼を言って受け取った。
ウィルフレッドは極限まで苦みを減らしたほぼ砂糖のコーヒーに口をつける。ここまでしなければ、コーヒーなんて飲めたものではないとウィルフレッドは思っている。
「なんだよぅ。教えてよ」
クリスタがふてくされたように唇を尖らせた。
そんなにかわいい顔をしても、ダメなものはダメだ。
誰に、どれだけ金を積まれても、これに関してウィルフレッドが口を割る日は来ないだろう。
「……ぜっっったい、やだね」
―――辺境伯領の凄腕魔法使いウィルフレッド・ベルツには、見習いの頃から思いを寄せるたった一人の相手がいる。
相手の身分は貴族。王家とのつながりをも持つ、由緒正しい伯爵家。
魔法の腕に自信があっても、平民であることに変わりはない自分のこの想いは叶わないものだと、ウィルフレッドはよく知っている。
彼女が自分だけに笑いかける日を、何度夢想し、焦がれたかわからない。
可能性など、万に一つもないとは分かっていても。
彼女の隣に立てる未来を、探して、探して、探して。
でも。
……いや。
だからこそ。
―――飲みもしないコーヒー豆が『想い人が来た時のためだ』なんて、口が裂けても言うわけにはいかないのである。