21.どうすればいいのかわからない1
夕食はハンバーグだった。
ウィルフレッドはなんだか、鼻歌すら歌い出しそうだった。(あのウィルフレッドが、である)
そもそもウィルフレッドはご機嫌なときにハンバーグを作りがちだ。よほどいいことがあったんだろう。
それはきっと、あの二つ結びの女の子に会ったからで、彼女から贈り物をもらったからなのだ。
「あれ……その時計……」
クリスタは、ウィルフレッドの腰に見覚えのない金時計を見つけた。
「ああこれ? 貰い物なんだ」
ウィルフレッドはその金時計を手に取ると、手の甲でそっと撫でる。
「大事な、もの……?」
「ん? ああ、まあ……そうだな」
(ああ―――それが、あの子からの、贈り物なんだ……)
心臓が掴まれて、握られているかのような心地だった。
ウィルフレッドのハンバーグは、クリスタの大好物なのに、今日は全然味がわからない。
(私……私だって……ウィルに何かあげて、喜んでもらうんだ……。ウィルに、笑顔を向けてもらうんだ)
奮い立たせた心も長くは続かない。でも食卓では言い出せなくて、クリスタは食後の洗い物の時間にありったけの勇気を出して口火を切った。
「あ、あの……あのさ!」
「ん?」
心なしか、クリスタに向けられる表情がいつにもまして穏やかだ。
(そうだよ。緊張することなんてない。自然に聞ければ、ちゃんと……)
クリスタは努めて明るく、何の気なしを装って問いかけた。
「男の人って、何もらったら嬉しいの」
「え、」
しかし、クリスタはすぐに後悔した。それを聞いたウィルフレッドが、ものすごく、ものすごくものすごく、嫌そうな顔をしたからだ。
「や、だから……その……やっぱ、なんでもない……」
その突き刺さらんばかりの冷たい視線に耐えられず、クリスタは最後の皿を水切り籠に立てかけて台所を出た。
あのまま台所に居たら、泣いてしまいそうだった。クリスタからの贈り物は、今のウィルフレッドには、そんなにも迷惑だったのかと突きつけられたようで。
(あの子からは、貰うくせに……)
後ろから足音が聞こえて、クリスタはびくりと体を震わせた。
強い力で手首が引かれた。
振り向くと、こちらを見るウィルフレッドの顔は、明らかに怒っている。
「なあ、さっきのどういうことだよクリスタ。なんで、男が喜ぶものなんて……」
クリスタは顔を隠すように後ろを向いた。
そうですか、好きでもない女からのプレゼントは追いかけてやめさせるほどイヤですか、というふてくされた気持ちがむくむくと湧いて、すぐに萎んだ。
そりゃ、そんなの嫌に決まってる。
「なあ、クリスタ……なあ!」
ウィルフレッドの焦りを含んだ声に、クリスタの心はほんの少し優越感を覚えた。
そんな自分が、ものすごく身勝手で醜いものに思えた。
(ウィルが生きているなら、他には何も望まないって、そう、思えてたんだけどな)
「ほんと、どうしたんだよ……」
強く握っていたウィルフレッドの手が、不意に緩んだ。
ぽんと、クリスタの頭にウィルフレッドの手が乗った。そのまま、そっと撫でられる。
心配そうな手つきだった。掴まれていた手首には、跡すらついてない。
そのことに、ウィルフレッドのその優しさに、なぜか今はひどくムカついた。
(なんでこんな、優しく触れるの。なんでこんな、大事なものみたいに……)
彼が自分の知らない女の子と歩いていたというだけで、クリスタはこんなに―――こんなに、苦しいのに。
(私のことを、好きなわけでもないのに……)
ウィルフレッドにしなだれかかるように触れていた二つ結びの女の子。彼女の勝ち誇ったような笑みが、クリスタの脳裏にふいに思い出された。そして、気づけば、クリスタはウィルフレッドの手を振り払っていた。
「え、あ、……」
慌てて顔を上げると、ウィルフレッドは、さっきよりずっと―――傷ついた顔をしていた。計り知れない後悔が、一瞬遅れてクリスタを襲う。
「ご、ごめ……」
クリスタの謝罪が終わる前に、ウィルフレッドがクリスタの手首を掴んで歩き出す。
「ね、ねぇ! ちょ、待っ……! ウィル!」
名を呼ぶと、クリスタの手首を握る手に力が込められる。ウィルフレッドの返事はなくて、いつになく不機嫌そうだった。さっきの機嫌のよさはどこに行ってしまったのか。
クリスタは困惑していた。
だって今まで一度だって、こんな風に余裕のない彼の表情は見たことがなかった。
ウィルフレッドの寝室のドアが乱暴に開けられ、クリスタの体が広いベッドの上に投げ出される。
「言えよ。男が喜ぶもん用意して、誰にやるのか」
ウィルフレッドがクリスタを睨んでくるが、そんなこと、言えるわけがなかった。
よほど迷惑だったのだろう。ウィルフレッドの好物のベリーパイを、彼の師匠が勝手に全部食べたときだってこんなに怒ったりしなかったのだから。
ベッドの上はウィルフレッドの匂いでいっぱいだった。
それは、抱きしめられたときみたいにクリスタを包んでいた。
あの二つ結びの女の子は、この場所でウィルフレッドにどんなふうに触れてもらうんだろう。『治療』とは違う手と唇が、愛おしそうに触れるんだろうか。クリスタの知らないウィルフレッドの顔を、あの子は見るんだろうか。
そうやって、今になってまだそんなことを考える、未練たらたらな自分が情けなくて。どうしようもなく嫌で。
苦しくて、たまらなかった。
(なんで、涙、出てくるの―――!)
涙を止めたくて必死で、ぎゅっと唇を噛んだ。
ウィルフレッドの心を自分に繋ぎ止めたいために泣いていると、ウィルフレッドに思われたくなかった。
「なあ言えよ」
ウィルフレッドの幸せの邪魔になるくらいなら、手放しで応援できないような自分は、ここに居ないほうがいい。
「―――っ! もう、もうやだ。もう、出てく……。もう、帰ってこない……!」
やけになってクリスタが言うと、ウィルフレッドが伸ばしていた手がピタリと止まった。
「ウィルと居るのが苦しい……。ウィル、に、触れられるのが……! しんどいっ……! だって―――」
だって、予知夢とは違うこの世界では、ウィルフレッドはクリスタの婚約者じゃない。予知夢のクリスタは想いを伝えたんだろう。
そうじゃなければ―――クリスタが言わなければきっと、婚約はおろか、振り向いてくれたとも思えない。
告わないと決めたクリスタを、ウィルフレッドは好きになってはくれないのだ。
そんな相手に触れられるのが、どれだけ苦しいかウィルフレッドは知らない。
そして、どれだけ嬉しいかも、きっと知らない。
口から飛び出た言葉は、嘘じゃないけど、嘘だった。
「だって―――……」
ウィルフレッドの手はいつも、乱暴なくせして甘やかで、粗雑なふりをして大切そうに、クリスタに触れた。
髪を撫でるときも、クリスタを抱きしめるときも。
そのことが嬉しくて、クリスタの心はどうしようもなく弾む。
けれど、弾むたび、同じ速度で重しがのしかかる。うれしい分だけ苦しくて、それでもその手を拒むなんてことは、クリスタには無理だった。
「なんだよ、それ」
空気の温度が、氷点下にまで下がったような気がして、クリスタは身を竦ませた。
「天秤月の五日までって、そういう約束だったろ」
苛立ちを含んだウィルフレッドの声と、余裕のない表情に、心臓が止まりそうになる。
「なに、好きなやつでもできたの。贈り物も、そいつにやるわけ?」
あなただよ、と言いたいのをクリスタは必死に堪らえた。言ったらきっと、困らせる。
黙ったままのクリスタにウィルフレッドが眉間にしわを寄せる。無言でクリスタの両の手首をいとも簡単にベッドに押さえつけ、片手で無造作に首元のタイを緩めた。
ウィルフレッドの顔がクリスタの首筋に寄る。
クリスタの耳を、一すじのウィルフレッドの髪がさらった。ウィルフレッドの唇が首すじに触れる。それだけで、クリスタの背中に嫌悪のない震えが走る。
たったそれだけのことが、泣きそうなほどにクリスタの感情を揺さぶる。
固い決意も、決死の覚悟も、彼の存在はいつも、いとも簡単に溶かしてしまう。
「逃げなくていいの?」
このまま襲うけど。
とウィルフレッドが付け足した。
こんなときでも律儀に前置いて、クリスタが以前提示した「条件」を破らない。
クリスタは動かなかった。
逃げられるわけなかった。
手の拘束が緩かったって、ウィルフレッドのぬくもりが、声が、匂いが。どれもが、クリスタを捕らえて離そうとしなかった。




