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午後三時になった。英国流でいけばお茶時間は四時なので、船長室にいくにはまだ少し余裕がある。
下部デッキは、上部デッキから螺旋階段を降りたところだ。乗務員専用エリアと乗客用娯楽エリアがある。乗務員専用エリアには、厨房やシャワー室があった。一般客の立ち入りは禁止だ。乗客用娯楽エリアには、喫煙室とバーと手洗い場があった。
シナモンが、バーをのぞいてみた。中国人バーテンダーと黒人ピアニストがいた。バーテンダーは丹念にグラスを磨いている。ピアニストは、ジュラルミン製ハーフピアノをまるで机の引き出しのように開いて鍵盤を調律していた。二人とも、一行をみかけると微笑んだ。
バーには、カウンターとテーブルが二つ、それに椅子が八つあった。ミュシャの回廊が、名前の通り、その画家のパネルで揃えられているのに対して、バーだけは例外だった。なぜか一枚だけクリムトの絵が飾られているのだ。カンヴァスには、日本の金屏風を模した背景に極彩色の衣をまとった男女が、絡み合うかのように抱擁していた。『接吻』という題名だ。豪華ではあるのだけれども、官能・背徳・退廃が混在していた。
カウンターには、サングラスの日本人の男と、チャイナドレスの中国人の女が腰掛けていた。グラスが二つ並んである。たっぷり塩が塗ってあるところをみるとテキーラのようだ。
シナモンが戸惑った顔をしている。
エドガー博士が訊いた。
「どうなされたのですか?」
(さっき、ミュシャの回廊にいた二人では? ひそみ声で、「計画」といっていた)
そんなふうに思いだしたのだが、「いえ、何も……」と答えた。
カメラマンの中居が、くるっ、と回れ右をしてほかの三人に手招きした。
「おおっ、ここが喫煙室ですよ」
中居が扉を開けると煙草の煙がもうもうと押し寄せてきた。
「わっ、目にしみる。換気扇が回っているだろうが……」
喫煙室には椅子が六つ並んでいた。パイプ煙草をふかす大男が腰掛けていた。中居が咳き込んだ。大男は、「やあ」と手を振って戸口に立った。乗船の際、エドガー博士と一緒にシナモンの窮地を救った船長だった。
「やあ、姫様。その人たちと親しくなったのかい?」
「はい」
「四時になったらスチュワートを迎えにやる。船長室にきてくれ。『ラプサンスーチョン』が手に入ったんだ。ご馳走するよ。よかったらお連れの皆さんもいかがかな?」
中居が佐藤に訊いた。
「先輩、『ラプサンスーチョン』って何ですか?」
「四川産の燻製茶だ。めっちゃ高い」
「子供みたいにまた、砂糖とミルクを入れ過ぎないで下さいよ」
「うるせえっ」
佐藤が中居の頭に拳骨をくれてやろうとした。中居は素早く避けた。佐藤は、腕を空に切らせてよろける。船長が腹を抱えて笑いだしたので、シナモンとエドガー博士もつられて笑った。
四人は自室に戻ろうとした。歩きながら佐藤がシナモンに訊いた。
「姫様、飛行船に喫煙室があるのはなぜだと思いますか?」
「シルフィーの浮力は、大量の水素で得られています。引火するのを防ぐためでは?」
「その通り。火がつけば木端微塵。訊くところによると操縦室には非常用レバーがある。喫煙室が火事になったとして、操縦室の船員が、ぐいっ、とそいつを倒す。するとどうなるか?」
佐藤が意味深に笑った。
「消化装置が作動するのでは?」
「いや、飛行船本体から喫煙室ごと切り離して落とすんです」
「酷い。全面禁煙にすべきです!」
「そっちのほうがよっぽど酷い。愛煙家は命よりも『至福のひととき』を選ぶものなのです。もちろん、ヘビースモーカーの船長が知らぬはずがないでしょう」
「貴男も愛煙家なのですね?」
「もちろん。部屋にいく前に一服していきます」
佐藤は喫煙室に戻っていった。中居とエドガー博士は、シナモンが「将軍様」一行から絡まれないように部屋に送り届けた。
エドガー博士は部屋に入ると椅子にもたれかかった。