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ラウンジ
中東ペルシャ湾の奥にあるのがイラクである。ウルは、同国南東に位置する古代都市遺跡だ。チグリス・ユーフラテス文明に属している。ジグラッドは、日乾し煉瓦を積み上げた高層神殿で、『旧約聖書』にあるバベルの塔もその一つだ。エドガー博士は大英博物館に所属し遺跡発掘調査団員として彼の地に派遣された。同僚には、後に、「アラビアのロレンス」として名を馳せる英雄T・E・ロレンスもいた。シナモンと交流している考古学者である。
黄金の髪の貴婦人が笑みを浮かべた。
「エドガー博士、お会いできて光栄です!」
「シナモン? レオノイス伯爵のご令嬢は、オクスフォード大学に進学し何度も飛び級して卒業したということを耳にしている。『コンウォールの才媛』。貴女がそうでしたか!」
考古学者である博士は、イギリスの退役軍人で、除隊時の階級は大尉だった。
若い貴婦人と老紳士は、左舷プロムナードデッキから、「ミュシャの回廊」に戻った。それから乗客キャビンの端にあるT字路を横切り、反対にある右舷プロムナードデッキに歩いていった。
「レディー・シナモン、私は飛行船シルフィーが小宇宙のように思える。ともすればうるさくなるアールヌーボー様式をシックにおさえているところが素晴らしい」
「同感です。まるで空に浮かぶ美術館。とても静かでプロペラ・エンジンの振動さえ感じません」
紳士は微笑んだ。このとき、トロンボーンのような音が鳴った。
「飛行船は防振構造になっている。浮力を得るための水素を詰め込んだ気嚢が膨張してゆくから、たまにガス抜きする。この音以外、われわれは静寂を楽しむことができるというわけだ」
二人は右舷プロムナードデッキにあるラウンジに入った。
午後一時になったとき、飛行船は揚子江から離れてもう東シナ海上空にきていた。
ラウンジには、黒い椅子とテーブルがいくつか置かれていた。S字紋様が施されている。アールヌーボーに特徴的な意匠である。テーブルの一つに相向いで座って珈琲を注文したのは、雑誌『東京倶楽部』の記者とカメラマン、佐藤と中居だ。
「おい中居、飛行船シルフィーのプロフィールを知っているか?」
「知りませんけど。何か面白いネタなんですね?」
佐藤が白い歯をみせた。
「大戦の主な戦勝国と敗戦国は?」
「ええっと。戦勝国は、イギリス、アメリカ、フランスの連合国、どさくさで漁夫の利を得た日本。敗戦国は、ドイツ、オーストリー、トルコの枢軸国でしたね。そんなことと飛行船シルフィーがどう関係あるんすか?」
「大ありだ。第一次世界大戦のときドイツは、飛行船を大量に生産してロンドンを空襲した。戦争が終わると戦勝国は、敗戦国ドイツから飛行船を戦利品として根こそぎぶんどっていったんだ。どれもツェッペリン型硬飛行船だった……」
スチュワートが珈琲を運んできた。かなり熱い。少し冷まさなければ飲めたものではない。
「――イギリスは、ドイツからぶんどった飛行船を真似てR三一八型っていうのを建造。それに航空大臣を乗せ、ドーバー海峡を越えフランスに渡るデモンストレーションを決行した。国家の威信を懸けたってわけだな」
佐藤は、息を吹きかけ珈琲を冷まし一口飲むと話を続けた。
「ところがだ。R三一八型飛行船は、フランス上空で大爆発を起こして、イギリスは赤っ恥をかいたんだ。もともとツェッペリンは、あの有名な物理学者アインシュタインが設計したもので、並みの技師には手に負えない代物だったってわけだな」
「イギリスの飛行船は?」
「もちろん製造中止になった。ドイツからぶんどった飛行船も外国に売却したか解体した」
中居が目を大きく見開いた。
「――ってことは、飛行船シルフィーも?」
「そうだ。売りにだされた爆撃用飛行船の一つ、ツェッペリン型硬飛行船LZ七七。爆撃用を旅客用に改装したんだ。所有者はオースリー籍を持つユダヤ人大富豪。上海に屋敷がある」
佐藤が、珈琲にミルクをなみなみと注ぐ。みていた中居が呆れ返った。
「あぁあっ、先輩。なんてことを。砂糖もミルクも入れ過ぎだあ……」
「やかましい。俺はこういうのが好きなんだよ」
「頑固だなあ、もおっ!」
二人のいるラウンジに、若い貴婦人が老紳士にエスコートされて入ってきた。
佐藤が中居に目配せする。
中居がいった。
「先輩、インタビューやりますか?」
「もちろんだとも」
中居がウインクして小声で訊いた。
「日本の雑誌社『東京倶楽部』の者で、飛行船シルフィーの取材をしております。私が記者の佐藤。そっちがカメラマンの中居。お嬢さん、写真を撮らせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」
シナモンが少し戸惑った顔をした。けれども、すぐに笑顔になって名をいい、そこから先は日本語で話した。
「ミスター佐藤にミスター中居。今、私は貴男方の言葉を勉強しています。ご教示戴けないでしょうか?」
「喜んで。それにしても素晴らしい日本語ですね。いつごろから学んでいらっしゃるのですか?」
「はい、先々週からです。東京に着くまでにはマスターしようと思います」
「えっ?」
佐藤と中居が顔を見合わせた。シナモンが通訳した。博士は、微笑む若い貴婦人と、戸惑う日本人二人を見比べて笑いだした。
「なるほど、『コンウォールの才媛』の異名は噂に違わない」
エドガー博士は日本語が話せない。二人には英語で話した。
「レディー・シナモンは三週間で外国語をマスターする。昔、トロヤ遺跡を調査したシュリーマン博士もそうだった。まず母国語に翻訳されたストーリーを理解し、次に外国語テキストを暗記した。一か国語を習得する期間は三週間だったという。そうやって何カ国もの外国語が話せるようになったんだ」
老紳士は、またシナモンに話をふった。
「レディー・シナモン、君はどうしているんだい?」
「はい、私の語学学習法も、シュリーマン先生の方法を参考にさせて戴いてます」
佐藤は呆気にとられた。
「確かに才媛だ!」
(あの別嬪さん、姫様は、何か圧倒するものをもっている。すっかり調子狂っちまってるなあ、佐藤先輩)
中居は、シナモンとエドガー博士に断ってから、二人の写真を撮った。ラウンジを背景に、テーブルを挟んで椅子に座る絵にした。