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飛行船の構造2
中居が叫んだ。
「うわっ、別嬪さん。やばいっすよ!」
新聞記者佐藤たちは上部デッキにいて一部始終をみていた。佐藤は後輩カメラマンが、今にも「将軍様」に躍りかかろうとするのを止めた。
「よせっ」
「なぜっすか?」
佐藤が指をさした方向には、人々の群れがあり、そこから老紳士が飛び出し、シナモンを庇うように割って入った。「将軍様」のボディーガードが殴りかかる。だがその人は、相手の拳を左肘で払い、代わりに右拳を相手の鼻先で止めた。乱暴者は、堪らず、床に尻餅をつく羽目になったのだ。
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――おおっ!
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ほかの客たちがどよめく。
老紳士がいった。
「酒の臭いがする。酔っているな。御婦人に対する物言いではない。謝るべきだ」
腹の出っ張った「将軍様」が、ふごっ、と鼻息をたてた。
(何だ、この爺は? ボディーガードはわが軍でも選りすぐりだ。まるで子供を相手にしているかのようだ。まあいい、東京に着いたら始末してやる。糞っ、空であの娘を犯れなくなる――)
風に舞う妖精のような物腰。天使のようなほほ笑みをして自分に振り返る。部屋の寝台に連れ込んだ娘を押し倒し、着衣を引きちぎってのしかかる。そんな様を想像した。だが、現実はどうだ。白いスーツの老紳士が、シナモンを背にして、一行と対峙しているではないか。拳銃は危険物なので荷物室にある。「将軍様」の目が吊りあがった。
(爺っ、東京に着いたら射殺だ!)
自分や子分どもが、束になって掛かっても、素手では勝ち目がない。
野次馬の中にいる中居がふてくされるようにいった。
「ちぇっ、俺の出番をとっちまったよ。爺さんが出てこなけりゃ、いまごろは、あの別嬪さんからチュウして貰えたかもしれないのに……」
「馬鹿か。老紳士はおまえと格が違う。退役軍人だな。相当の修羅場をくぐり抜けてきた猛者とみた。それより中居、何で写真を撮らなかったんだ?」
(あっ、いけねえっ)
佐藤が真顔でいうと、中居は頭を掻いた。
殴り合いこそは止んだが、デッキはまだ険悪な雰囲気のままになっている。そこに先ほどの船長が現れた。偉丈夫で顎髭を生やした初老の人であった。
(中国地方軍閥の将軍が乗員名簿にあった。まったく、窓口の奴らは何を考えとるんだ? 飛行船の運行はセレブでもっているようなものだ。イメージダウンは経営上の命取りだ)
船長は、「将軍様」一行を尻目に、シナモンに声をかけた、
「姫様、お美しくなられた。父上はご息災かな?」
「お久しぶりです、少佐。はい、元気です」
シナモンが手を差し出すと、少佐はうやうやしく手をとった。
(潮時だな)
船長の登場で、老紳士といがみあっていた「将軍様」一行は、ひとまず退散することにしたらしい。突き出た腹を抱えて笑い自室に消えていった。老紳士は一行の姿がみえなくなるまで背中を睨みつけていた。
「助けて頂き感謝いたします」
黄金の髪をした若い貴婦人がそういうと、船長も言葉を続けた。
「私からも礼をいわせてください。彼女の父上は私の恩人なのです」
シナモンの父親と船長は第一次世界大戦のとき、同じ航空隊に所属する戦友だった。
黄金の髪の貴婦人が、お辞儀「カーテシー」をしようとしたのだが、老紳士は衣服を正し、「人としての義務を果たしたまでです。礼には及びません」といって、やはり自室に向かった。
佐藤はふと、少し離れたところにいる野次馬の中の東洋人の男女に目がいった。男はサングラスをかけていた。女はチャイナドレスだった。二人とも痩せている。
「騎士道か──」
「東洋にはない発想ね」
中居が横にいた佐藤の袖を引っ張った。
「一件落着したところで先輩、部屋に行きましょうよ。下部デッキにはバーがあるって話っすよね? 荷物を置いたら飲みにいきましょうよおっ」
「黄金の髪をした貴婦人に、船長、老紳士、東洋人の二人連れ、そして『将軍様』。役者は出揃った。舞台は巨大な豪華飛行船シルフィー。さあ、物語が動いてきたぞ」
佐藤は、手帖を胸ポケットから取り出すと、中居を追い越して客室へ向かった。意表を衝かれた中居の耳に、船内アナウンスが訊こえてくる。
──皆様がご乗船になられている飛行船シルフィーは、上海─東京間一千七百八十キロメートルを、時速七十五キロで航行し、目的地東京には三十時間後に到着する予定です。ご用向きの件は、お近くのスチュワートに訊ねくださいませ。なお、本船の全長は二百四十メートル、幅は四十一メートル、水素ガス容量は二十万立方メートルとなっております。それでは皆様、快適な空の旅を。