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飛行船の繋留
アールヌーボーの巨大飛行船の窓下には、いくつもの箱庭を並べたかのように表情を変えていく風景があった。瑠璃色をした海、煉瓦造りの都市、藁葺き屋根の民家集落が続いている。横浜、川崎、品川……。軍艦や商船が停泊している港湾、緑に包まれた皇居が望めた。
薄暮である。煉瓦ビルと木造建築が同居する街に、ぽっかりと空いた東京芝浦の仮設空港があった。。飛行船は、収納されたいくつもの気嚢から、シューシューと水素ガスを放出し、ゆっくりと高度を下げていく。予定時刻午後五時ちょうどの着陸となった。
着地間際、乗員が専用窓から何十本ものロープを地上に投げ降ろす。すると、地上の係員が拾って繋留塔に素早くつなぐ。扉となっているタラップが開いてハの字になった。四基のプロペラエンジンは回転を停止。出迎えの楽隊の演奏が鳴った。誘われるように乗客たちが次々と降りだす。
下部デッキに最後まで残っていたのは、シナモン、佐藤、中居、そして船長だった。船長が顎髭を撫でながら佐藤と中居に訊いた。
「殺人事件のことは記事に書くのかい?」
佐藤は首を横に振った。
「巨大飛行船シルフィーのフライト日誌を書いただけでも特ダネです。後は何もみてませんよ。なあ、中居?」
「そうっす。先輩が書くへっぽこ記事なんぞよりも、俺が撮った写真だけで、日本中がぶったまげますよ」
「死ね!」
佐藤は中居に拳骨をくれてやった。
空港には、シベリア鉄道を使って先回りしてきた伯爵家の家宰が、手配したリムージンで出迎えた。扉が開けられ、黄金の髪の若い貴婦人は、乗りかけた。だが、もう一度、銀色に塗装された巨大飛行船に戻って、S字紋の意匠が施されたタラップの欄干に頬を寄せた。
「またお会いしましょう、私のシルフィー」
それから、その人は、階段の上にいる下部デッキの三人に、スカートの両端を軽くつまんで一礼したのだった。姫君のリムージンが空港から東京の何処かへと消えていくのを、下部デッキにいた三人はみえなくなるまで手を振った。
佐藤と中居も下船した。
「絶対、俺よりやばいっすよ、先輩。これ貸しますよ」
中居は佐藤にハンカチを渡した。
「中居、おまえなあっ!」
「余計でしたか?」
「いや、上出来だ」
佐藤は中居がよこしたハンカチで目頭を拭った。
船長は地上に降り、煙草を一服してから、また飛行船のタラップを昇っていった。
「やれやれ、後片づけをしなくては……」
途中、船長は頭上を白いスカーフが風に飛ばされているのに気づいた。アールヌーボーの意匠で飾られた船体にペイントされている「SYLPHY」の「S」のところに貼りつく。やがてそれは、中空に舞い上がり、風の形であるS字を描くと、小さくなって消えた。