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午後二時、飛行船は知多・渥美の両半島で内海を囲ったような格好をした三河湾上空を飛んでいる。
ミッシェルは船員用の部屋に戻された。代わりに別のスチュワートに付き添われて登場したのはエドガー博士であった。老紳士は読書室に入ると、船長に向かい合う席に着いた。
「お茶の時間にはまだ間があるが、それもまた一興ですな」
黄金の髪の若い貴婦人が、紅茶とお茶請けをテーブルの上に並べていた。その人は、銀ポットから金縁のティーカップへ優雅な手つきで紅茶を注ぎ、博士に勧めた。湯気とともに、甘酸っぱくてスモーキーな香りが、ふわっ、と漂いだしてきた。
「個人的にですが、アールグレイはイギリスと中国の友情の証しと考えています。イメージなさってください。霞みたつ雲南の山里には庭園があり、一つのテーブルを囲んでお茶会が催されています。ホストは仙人のような中国の老人たち、ゲストは頭の薄くなった伯爵です。なんとも微笑ましい風景ではありませんか?」
エドガー博士は、感慨深そうに天井を仰ぎ、ティーカップを手に取った。
「その話は、『アヘン戦争』前の事だろう? 不名誉極まりない戦争だった。われらは中国人にあれだけ酷いことをしたのだ。もう一度、本当の意味で、友人になれるのだろうか?」
「なれますとも、絶対に!」
シナモンは断言した。
老紳士は、カップの紅茶をソーサーに移し冷まして飲んだ。ビクトリア朝時代の作法である。船長も同じ作法で紅茶を口にした。三人ともなかなか本題に切り出さず、話題は「アラビアのロレンス」になった。
時代は、第一次世界大戦前のこと、イギリスとトルコの関係が日増しに険悪になって情報が入りずらくなってきていた。そこで、イギリス諜報機関は、大英博物館に目を付け、中近東におけるスパイ活動をさせた。表向きは古代遺跡の発掘調査、裏では地形測量を行わせていたのだ。シナイ半島の付け根で、当時トルコ領になっていた港湾都市アカバも、諜報活動の舞台となっており、英雄トーマス・エドワード・ロレンスもそこにいた。
ロレンスはストイックな男だ。菜食主義者で酒よりもむしろ水を好んだ。女性的な顔立ち、青灰色の瞳をしている。その人が、港から四百メートル先のアカバ湾に浮かぶ小島を指さし、エドガー博士にささやいた。
「あの島に渡りたい」
ロレンスと博士は、「島には回教寺院遺跡があるので調査させて欲しい」とトルコ官憲の事務所に申請した。島からは港湾が一望できる。当然のことながら申請は却下された。
煙草をくわえかけた博士がいった。
「ボートをチャーターするかね?」
「市場で浴槽を買うんだ。ボートになる。そいつで島まで渡ろう」
船をチャーターすれば怪しまれる。だが浴槽ならどうか。二人は、難なく月の夜、小島に渡り、測量器材、写真機一式を荷揚げした。そこからアカバの地図を作成したのだ。
後年、勝手を知ったロレンスが、参謀となったアラブ軍に随行。アカバ港を電撃的に攻略し、歴史に名を刻むことになる。
午後四時、相模湾上空になり、東京を目指す飛行船の左手に富士山が望むことができる。下方には、山寄りに茶畑、海寄りに静岡の市街地が広がっている。
船長はカップをテーブルに置いた。
黄金の髪の若い貴婦人が訊いた。
「第一次世界大戦後に、博士が、中国にいた理由も同じですね? 上海近郊を発掘調査しつつ、黄浦江に投錨している砲艦を介し英国本国に情報を伝えていた。調査対象は日本軍――」
老紳士はうなづいた。
「淅江省杭州市にある素晴らしい遺跡だった。水田が湖にみえ、そこに浮かぶ島のようにそびえた丘こそが新石器時代の遺跡だった。王宮、城壁、邸宅、道路、水田、茶畑……。文字と金属こそはないが、長江文明ともいうべき壮大な都城遺跡だった」
エドガー博士は、目を細め、どこか遠くをみているかのようだった。
「充実した日々。スタッフはイギリス人と中国人がおり、有能で協力的だった。けれども、現地では外国人排斥運動が起った。やがて『将軍様』と呼ばれるあの男が、部隊を率いてやってきた。金目の出土品を略奪し、止めに入った私の仲間たちをピストルで射殺したのだ!」
黄金の髪をした若い貴婦人と顎髭の船長は、老紳士の拳が震えていることに気がついた。博士が続けた。
「当時の中国は今以上に複雑だった。北京の中央政府は名ばかりで、各地には軍閥政権が割拠していた。劉真栄は、親日勢力に属していて、われらの目的に気づき踏み込んできたというわけだ。私は、中国人スタッフに手引きされ、間一髪で母国に帰還した」
博士の口調がまた穏やかになった。
「半年前、私は、奴が飛行船フライトの予約をいれたということを、ロンドンの諜報機関に勤務する仲間から知らされた。奴は大量殺戮者だ。どうせ殺された仲間たちや、私のことなど忘れているだろう。そう考えて殺害計画を練った。案の定、上海の飛行場で顔を合わせたとき、奴は気づかなかった」
若い貴婦人が目に涙を浮かべた。
船長がうなずいた。
「それでお仲間の復讐を決意なさったのですね?」
エドガー博士は、懐中から取り出したロケットペンダントを開き、涙を浮かべた。
「息子のユリセスだ。実の両親は、事件のとき殺された仲間で、私が帰国したとき、孤児院から引き取って養子にした」
シナモンが急に立ち上がって博士の肩に両手をやった。
「博士、本件は、ご子息が計画したものではないですか? 貴男は、ご子息を引き留め代行した。そうではありませんか?」
老紳士は微笑むだけで何も答えない。
その人は博士にまた質問した。
「私を監視するという目的もあったのでしょう。けれど、貴男は野獣のようなあの男から守ってくださいました。感謝しています。でも、どうしても判らないことがあります。なぜ捜査を手伝って下さったのです?」
老紳士は笑った。
「ロレンスと仕事をしているようで楽しかったんだ」
船長が立ち上がる。シナモンの顔色が変わった。
「博士、何をおっしゃっているんです。一緒に遺跡を調査しましょう」
「優しい娘さんだね、シナモン。すでにカンタレラを飲んだ。すべての責は私にある。自供を記した遺書はトランクの中だ」
椅子にもたれたエドガー博士の瞳から、みるみる精細が失われていく。