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例えば、洗濯物を携えた有閑夫人が裏路地を歩いているとしよう。煉瓦造りのアパートの一室には老婆が棲んでいる。シャツを渡せば、翌日には毒液に浸し乾かしたのを返してよこす。足げく通って、着替えを夫に与えれば、衰弱死させることができる。未亡人が泣き崩れるものだから、周囲では病死とみて疑わない。
暗殺者たちの中で人気が高かった毒薬は砒素。無味無臭なのが特徴だ。多量に盛れば速効で、微量に盛れば、病気を偽装して暗殺することができる。
佐藤が顎の下を掻いた。
「常に暗殺の対象となる王侯たちは躍起だった。御典医に命じて解毒剤の開発を進め、死刑囚の同意のもとに、人体実験をさせた」
「『成功したあかつきには、特赦放免にしてやる』とでもいったんすかね、先輩?」
「中居、賢くなったな!」
「先輩のご指導の賜っすよ」
「おまえに褒められると、腹が立つのは何んでだ?」
中居の視点が天井にいった。
佐藤は続けた。
「十六世紀になると、人体実験が盛んに行われた。結果、解毒剤が赤ワインだということが判ったんだ。発見者はイタリアのマッチオリって医者だ」
中居は、思い出したかのように、佐藤に訊いた。
「そういえば先輩。現場検証のとき、姫様がアーモンドのような臭いがあるかどうか確かめていましたよね。青酸カリで被害者を毒殺したとき、遺体の口から臭うんだって……」
「実をいうと、青酸カリは暗殺には向かないんだ。口に含むと強烈な刺激が襲ってくる。アンモニアのようだとも、ガソリンのようだともいわれている。しかもだ、おまえみたいな図太い奴には、一服盛っても効かないときている。暗殺というよりは自殺向きだな」
「えっ、俺、こうみえても繊細っすよ。先輩にいつも苛められ、何度枕を涙で濡らしたとことか。うううぅっ……」
「おまえの涙はアンモニア臭だ」
「ひでえぇっ。先輩、ひでえぇっ!」
青酸カリについてはこんなエピソードがある。
十八世紀のドイツには大小の領邦国家が存在していた。その一つであるプロイセンが、オーストリアに戦争を吹っかけた。七年戦争だ。プロイセンの君主は国王と名乗ってはいるが、まだそう呼ばれて日が浅い。対するオーストリアの君主は神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねている名門だ。
人口比は、プロイセンが四百万、オーストリアが八千万で、大胆というより無謀そのものといえる。プロイセン軍で陣頭指揮を執っていたのはフリードリヒ大王だった。王は、ポケットに自殺用の青酸カリを忍ばせ、背水の陣で臨み勝利した。
スチュワートの一人が夢野を部屋に送り届けた。代わりに阮舜蓮を部屋まで送ったミッシェルが戻ってきた。
午後一時ごろになると、伊賀の山並みが急に開けて海になった。伊勢湾上空にきたようだ。北の彼方には名古屋の城下町が霞んでみえる。
船長は腕時計をみてから、乱暴に頭を掻きだした。
「おおおぉっ、あと四時間で東京に着いてしまう。さっぱり判らなくなった。で、姫様。『将軍様』に直接手を下した奴は、一体誰なんだ?」
「風が吹かなければ草木は揺れません。原因があるからこそ結果があるのです」
シナモンが一度瞳を閉じた。長いまつ毛をしている。再び開くと船長に向きなおった。
「私が船長と司令ゴンドラの操縦室に入ったときです。何者かが、レバーを引こうと手を触れた。けれども、私たちがきたことに気づいて物陰に隠れてしまいました。レバーは、火災に備えて喫煙室を切り離す緊急用のものですよね、船長? 恐らく同時刻に、被害者たちが喫煙室で一服していた。レバーを引けば、船体から喫煙室は切り離され、一味を始末できる。犯人は、それらの事情を熟知していた。乗務員による犯行としか考えられません」
「莫迦な。私の部下に?」
「レバーを引こうとした人物が実行犯です。操縦士と副操縦士のお二人が、気付かぬ筈がありません。幇助犯になります。いずれにせよ、船長と私がくるのに気づき、失敗に終わるのですが……」
「何と!」
黄金の髪の貴婦人は淡々と言葉を続けた。
「船医の先生が、死後硬直と死斑の状態から、被害者の死亡時刻を推定なされました。正午から四時の間です。飛行船が飛び立ち、お茶の時間になったあたりです。このとき私は、偶然、食堂に居合わせていました。そして、『ミュシャの回廊』側から『計画を変更せねば』という話しを訊きました。この時点で紅様と夢野様はチーズに毒を振りかけたのですけれど、被害者たちが解毒剤となる赤ワインを飲んでいることに気づいたわけです」
シナモンは、船長をみてから、ミッシェル青年に視線を向けた。
「アームストロング夫人が、被害者の部屋の前で、お二人の姿をみかけています。けれども次策を持ち合わせておらず、ぐるぐる回るしかなかった。そこで、被害者を仕留めた実行犯が登場する。操縦室での失敗を補う第二策を持っていた。夫人も、スチュワートの気配に気づいた男女は、その場を離れたと証言しています」
そこにいた誰もが、一瞬、身体を強張らせた。「コンウォールの才媛」の眼孔が、獲物を狙う鷹のようにも、サファイアの閃光のようにもみえたからだ。
「つまり実行犯は、ミッシェル様、貴男です」
ミッシェルの血の気がひいた。
船長は、どぎまぎしている部下の顔をのぞき込んだ。
「なるほど。スチュワートがグラスに毒を盛ったのなら怪しまれない。しかしなぜだ? 動機は? 毒薬は? 砒素でも青酸カリでもない。なら、どんな代物だ?」
「考えられるもっとも単純な動機はお金です。紅蓮様たちの砒素はワインで解毒されてしまった。ミッシェル様が、九死に一生を得た被害者たちに、とどめを刺したのです」
ミッシェルは、頭を抱え、しゃがみこんだ。
「いっ、嫌だ。死刑にはなりたくない!」
青年には病気の弟がいた。治療代が欲しかった。ある人からもちこまれた話は渡りに船だったという繰り言をしだす。
サファイアのような貴婦人の双眼が悲しげになっている。
船長は困惑している。図書室の裏側で訊き耳を立てている佐藤と中居も、顔を見合わせた。シナモンがあたりを見回したとき、壁の後ろに隠れている日本人ジャーナリスト二人をみつけた。両者は慌てて出しかけた頭を引っ込める。
「ミッシェル様、犯行時間の直前、ある方からチップにしては破格な報酬とワインボトルを手渡され、『将軍様』たちに差し入れして欲しいと頼まれたのですね?」
シナモンの眼差しが優しくなる。反対に船長のは険しくなった。
「黒幕がいるんだね? 姫様、君はかなり早い段階でそれを知っていたのか?」
「教唆犯から実行犯にボトルが手渡された直後、私はその方に出会いました。毒は、飛行船内部で盛ったのではなく、あらかじめ混入させたものを持ち込んでいます」
「そうか、それで部屋のボトルが一本だけ違ったのか!」
「教唆犯は、紅様たちとは違う動機で犯行を計画しています。悪人ではありません。むしろ、人間としては尊敬すべき方……」
シナモンは哀願するようにいった。
「少佐、お願いです、厨房に入らせてください」
少し考えてから船長は了承した。
図書室を出てから二十分後、シナモンは、銀ポット、金縁のティーカップ、それにケーキケースをカートに乗せて戻ってきた。アールグレイの香りが漂っていた。
アールグレイは、当時のイギリス首相グレイ伯チャールズ二世のことだ。伯爵の名を冠する燻製茶は今や馴染み深いものとなっている。十九世紀初頭、とあるイギリス人が中国の雲南省を旅行した際、地元の老人がお茶会に招かれた。出されたのが、アールグレイだった。イギリス人は、あまりの美味しさに製法を教えて貰って持ち帰った。その後、中国茶にインド茶が加わり、柑橘類であるベルガモットの香りが添えられ現在の形に至っている。