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時計がついに正午を回った。大阪湾上空だ。港湾、鉄道、工場群。淀川が湾に注ぎ込むデルタ地帯に大阪城と城下町が望め、殷賑は宙空を歩む銀色の飛行船からも望むことができた。街中を列車が糸のように細く小さく走っていた。
「おまじない」の効果はてきめんだった。阮舜蓮に代わってスチュワートの青年が連れてきた日本人の男が入ってくるなり、シナモンはハンドバックから小さな薬包をとりだした。
「阮舜蓮様から、これをお預かりしています」
男の顔色が変わって、ちっ、と舌打ちした。
すかさずシナモンは日本人の男に訊いた。
「薬包の中身は砒素ですね? 阮舜蓮様は、『(将軍様)を毒殺した』とおっしゃってましたわ」
「糞っ。お喋り女めっ──」
「すっ、凄い。姫様は本当に風を吹かせたわい!」
船長はシナモンを見遣った。
男は夢野久作という四十歳になる日本国籍の作家だ。上海に在住している。阮舜蓮の隣の十八号室にいる。夢野は自供を始めた。
二年前のこと。上海の人気映画女優阮玲玉は「将軍様」につきまとわれていた。
「将軍様」は、初めただの常連客で試写会に来場したり作品のスポンサーになったりもした。そのうち映画会社から、「食事に招待されたからいくように」と命じられるようになった。
何度か食事をすると、次には寝台を共にするようにいわれ、会社側からも命じられるようになった。執拗に要求されたため、桂蓮は悩んだあげく自殺してしまった。
桂蓮には婚約者と姉がいた。夢野久作と阮舜蓮だ。
殺されたも同然の銀幕スターの代わりに、残された二人は復讐を誓い合い、「将軍様」が隙をみせる機会を伺っていたのだ。
――日本びいきの「将軍様」は、同国に招かれ、飛行船シルフィーで渡航する予定がある。
情報を得た二人は、「飛行船に乗れば警護は手薄になる」と考え、全財産を投じて搭乗チケットを買った。
飛行船が上海を発って間もなく、搭乗した「将軍様」が、ルームサービスを申し付けた。チーズを載せたカートが、「ミュシャの回廊」から客室キャビンに運ばれていく。
夢野は、ヴェトナム人スチュワートが通りかかったところを見計らって呼び鈴を鳴らした。
「手洗いの使い方に慣れなくて……。もう一度教えてくださいよ」
スチュワートは仕方なく部屋に入る。その隙に隣室の阮舜蓮が、カートのチーズに砒素の粉末を振りかけた。
自供を訊いた船長は膝を叩いた。
「姫様、事件を解決してくれてありがとう」
ところが当のシナモンは首を横に振った。
「確かにお二人はチーズに毒を盛りましたし、『将軍様』一行はチーズを食べたのですが、結果的に死に至りませんでした。
「それはどういうことだね?」
船長は訊き返した。
シナモンは、開封した薬包から、粉末を卓上のグラスに落とした。
「赤ワインは砒素に対して解毒作用があります。事件のときにワインを飲んでいた『将軍様』たちが砒素を盛ったチーズを食べても死にはしません。例えばこんなふうに……」
薬包を開き粉末を口にする。
隣にいた船長は慌てた。
「ひっ、姫様っ。それは赤ワインじゃない。ただのグレープジュースだ!」
けれども、当人は平気な顔をしている。
「ああ、『これ』? 実はお砂糖――」
「よくも一杯食わせたな」
作家がじだんだを踏んだ。
「こうでもしないと夢野様も紅様と同じく黙秘なさったでしょう?」
黄金の髪の若い貴婦人は申し訳なさそうな顔をしている。
さて、図書室の壁の裏側に、猫のように床をはって、中をのぞいている二人がいた。雑誌『東京倶楽部』の記者とカメラマンだ。中居が佐藤に耳打ちした。
「先輩。赤ワインが砒素の解毒剤だなんて、俺、知りませんでしたよ」
「それには、ちょいとしたエピソードがあるんだ……」
欧州で毒殺が流行したのは、十六世紀から十七世紀にかけてのことだ。王侯貴族は政敵に、浮気な夫人は髪が薄くなった亭主に一服盛った。