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飛行船、瀬戸内上空
日付が改まった四月二日の午前六時。福岡を過ぎて瀬戸内上空に動いたあたりだ。藍色をした東シナ海の海よりも明るいエメラルド色の海になっていた。朝の太陽は案外高いところにある。
シナモンは、半起きして寝る前に整理したノートを再読した。一度立ち上がって椅子に座りなおす。それから、A3用紙に、キーワードを万年筆でいくつも書き込んでいった。
(小枝がたくさんあっても根幹は必ず存在する。陰に隠れているだけ――)
紙の中央には「殺人」と書かれてあった。多数のキーワード巡らされ、惑星を周回する衛星のようにもみえた。
ポットからコップに水を注いで口にする。それから一気に結線した。外縁から中央の「殺人」という文字に至るギザギザと折れ線にはなってはいるが、放物線に近いものだ。樹系図と呼ばれるノート・テクニックの一つだ。進化論を唱えたダーウインもこの方法で思考を整理したのだという。
おびただしい数の線のうちの一本を太くなぞる。事件の根幹に至る筋道だ。ところどころ、先送りした不明箇所を示す「□」マークがあるものの、物語に至るアウトラインは出きたようだ。
時計の針が午前八時を回った。呉上空だ。日本海軍の軍艦はここの造船所で産声を上げる。低い山並みが海に張り出し、続きが島になって、瀬戸内海に散っていく感じだ。
盛装したその人が、樹形図をハンドバックにしまい込み、壁鏡の前で長い髪を後ろに結った。部屋から通路に出ると、老紳士、それに雑誌「東京倶楽部」の記者とカメラマンが待っていた。
カメラマンの中居が挨拶代わりに声をかけてきた。
「姫様、朝からご機嫌麗しうございます。いい夢でもみたんすか?」
「ええ、とっても──」
四人連れは、ミュシャの回廊を通り抜け食堂に向かった。中央部の乗客キャビンからミュシャの回廊をたどる。
食堂は、左舷プロムナードデッキの手前にある。展望窓からは、眼下に瀬戸内海が望めた。淡く霞みかかった朝陽に溶け込んだ紺碧の海。点在する島々は金粉を散りばめたかのようだ。四人は長机の席に着いた。
テーブルの上には食器が並べられていた。ウエッジウッドの染め付け白磁だ。シロップを混ぜて半熟に焼き卵を塗ったトースト、ヴリアサバランチーズの蜂蜜添え、サラダ、アッサムの紅茶……。
老紳士がいった。
「五時には東京に着く。レディー・シナモン、ミスター・サトウにミスター・ナカイ。皆さんとお別れするのが名残惜しい」
「まだ、八時間ありますよ、博士。あっ、先輩。何、涙ぐんでるんすか?」
「うるっせえ」
サトウが鼻をすすってから手の甲で拭いた。
黄金の髪の若い貴婦人は、老紳士、それに雑誌『東京倶楽部』の記者とカメラマンと朝食をとり、しばし歓談。それから三人と分かれて、一人、読書室に入った。
時間が経つのは早い。飛行船が、岡山・高松間の瀬戸内海上空にきたあたりで、シナモンの腕時計は午前十時をさしていた。
黄色い塗装の室内。大きな木製の本棚が二つと、一人用と四人用テーブルが一つずつ、椅子が五つ並んでいた。黒く塗ったS字文様の意匠が施されている。読書室では顎髭の船長が待っていた。
船長とシナモンは椅子に腰掛けた。間髪を入れず、スチュワートの青年が重要参考人たちを一人ずつ連れてきた。
十六号室は、アメリカのセレブ、アームストロング夫人の部屋で、「将軍様」たちの部屋と同じ通路にあった。夫人は、こちらから何も訊かずとも機関銃のようにしゃべりだした。
「夕食の前だったかしら。私が船内を一回りしてお部屋にも戻ろうとしたときのことです。日本人男性と中国人女性が歩いていました。何かミステリアスじゃありませんか、あのお二人。私は忍び足でつけてみましたの……」
アームストロング夫人は、テーブルに置いてあったコップの水を半分一気に飲んだ。
「そのお二人、どこにいったと思います? 『将軍様』のお部屋の前あたり。そこでしばらくうろうろなさっていた。スチュワートのミッシェルさんの足音に気づいてご自分たちのお部屋に戻られたのですわ……」
夫人は涙目になっていた。シナモンが、ハンカチを差し出すと、ちいいんっ、と鼻をかんでまたしゃべりまくった。
「こんな素敵な飛行船フライトで殺人事件だなんて! おおっ怖い。それにつけても、あの人たち、ご結婚もなさっていらっしゃないのに二人でご旅行だなんて──もう、い・や・ら・し・いいいっ!」
夫人は、しゃべるだけしゃべると、すっきりした様子で読書室から出ていった。
髭の船長が隣の席に座っているシナモンにいった。
「いよいよ問題の二人だな」
スチュワートのミッシェルが、チャイナドレスの女を連れてきた。
午前十一時、四国と本土の間にある細長い形をした島、淡路島の上空だ。南北が水道となっており、忙しげに大小の船がいき交っている。
女は阮舜蓮という。二十二歳になる。中国上海市出身の舞台女優で、部屋番号は十七号室、「将軍様」と同じ通路にいる。阮舜蓮は完全黙秘を通し、ミッシェルに送られてまた部屋に帰された。
顎髭の船長は苛ついた様子だ。
「話しにならんな。姫様、次の日本人も同じだろうよ」
「では、シルフィーにお願いしてみます。風が吹けば草木もたなびくでしょ?」
黄金の髪の若い貴婦人が、幼い頃『かもめ岬』で出会った『アラビアのロレンス』をまねてみた。真顔だ。ロープの代わりに右手人差し指を、くるくる、と回してから急に立ち上がり、ぱっ、と宙を両手でつかんだ。
「シルフィー、素敵な風で背中を押して――」
そう囁いてから、小鳥を逃がすような仕草で両手を開いた。船長は腹を抱えて笑い転げた。
「なんだい、そりゃ?」
「ウェールズのおまじない。ロレンス様に教わりました」
「あの『アラビアのロレンス』に? 面白い奴だ。一杯やりたいね」
「はい、お伝えします」
その人が微笑んだ。
飛行船シルフィーでの食事はイギリス流の作法を採用している。ランチタイムは存在しない。当時の上流階級の人々は、午前七時あたりに朝食をとり、午後四時ごろにティータイムをして、午後七時前後に夕食をとったものだ。