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 デッキの展望窓からみた東シナ海の海がかなり暗くなっている。ちょうど、上海と福岡のちょうど真ん中あたりにきているころだ。午後七時の晩餐会が始まる。「ミュシャの回廊」を通って食堂に向かう二人連れがいた。佐藤と中居だ。

 佐藤は、当時の日本人としては丈があり、中居は平均的で、客たちの中では低くみえる。盛装すると佐藤も中居も貴公子のようにみえなくもない。あくまで、かしこまっていればの話しではあるが……。

「ねえ先輩、飛行船のオーナーはオーストリー国籍のユダヤ人っしょ。食事はそっち風っすかね? それとも船長の出身地にちなんでイギリス風すかあ? 意表をついて中華風……なあんて──」

「馬鹿か。飛行船シルフィーは国際便だ。――となったらフランス料理に決まっているだろ」

「そりゃまた何で?」

「ヨーロッパには、王制をしく国がまだ残っている。そこの宮廷料理をみてみろ。ほとんどがフランス料理だ。なぜかといえば、フランス料理は癖がないから万人受けするんだ」

 中居は上目遣いに佐藤の顔を見上げた。

「さすが、先輩は顔が広いですねえ。尊敬しちゃうなあ。ヨーロッパ諸王国の宮廷料理を食べ歩きしたんだあ?」

「中居……殺すぞ──」

 少しして、黄金の髪をした若い貴婦人と老紳士も部屋から出てきた。エドガー博士が佐藤たちを誘った。

「われわれも食堂にいくところなんだ。一緒にいこう」

 中居が佐藤に耳打ちした。

「姫様と僕たちって、なんか運命的じゃないっすか?」

「うむ」

「素直ですねえ、先輩らしくもない」

「うるっせえっ!」

 飛行船のシャンデリアに灯りがともされた。

 長テーブルにはS字意匠の刺繍が施されたピンク色のテーブルクロスが敷かれ、大皿の左右にはフォーク、ナイフ、スプーンが整然と並べられていた。中国人ボーイが、ワインクーラーで、摂氏八度に冷やした食前酒を運んでくる頃、乗客二十五名の大半が席に揃った。

 シナモンの席は壁際にあった。左はエドガー博士、右は佐藤と中居の席となっており、背後にはスチュワートのミッシェル青年が立っていた。

 防御陣は、姫君が『将軍様』一行にからまれないように配慮されたものだった。船長の指示だ。中居は、若い貴婦人から離れたところに座らされ、すっかりふてくされていた。

「なんで姫様の隣が先輩なんすか?」

 ウェイターたちが、瓶のコルク栓を抜いた。手際がいい。それから客たちのグラスに注いで回った。憮然としていた中居が、異変に気づいた。

「あれっ、『将軍様』たちがきませんね?」

「さっき部屋からドンチャン騒ぎが訊こえただろ? 静かになったところをみると、酔い潰れたんじゃないか?」

 船長がやってきたので、客たちは立ち上がった。

「皆様の楽しい旅を祈って、乾杯!」

 客たちがグラスを鳴らし合った。シナモンが微笑む。

「香りの良いワインですね、博士」

「ローラン・ペリエ・ブリュットです」 

 中居が、佐藤に訊いた。

「ローラン、ぺ……ぺ……?」

「ローラン・ペリエ・ブリュットは、フランス産のスパーリングワインだ。原酒は白葡萄。ブリュットは辛口を意味している。グラスの底をみろ。気泡がゆっくり出てくるだろ。香りは柚子と藁のコンポートのような甘酸っぱさ。これが特徴だな」

「先輩、マニュアル本を丸暗記したでしょ? ワインの味なんか知らないくせに、知ったかぶりしちゃって――」

「うるっせえっ!」

 佐藤は中居を小突いた。


 晩餐のメニューは次のようなものだった。

 前菜はオマール海老のムース。素材をすり身にしてトマトのきざみを加え、クリーム状にしてからゼラチンで固めて冷やしている。海老の風味に、ほのかな甘みと酸味が絶妙に加わっていた。スープは、コンソメで琥珀色に透き通り、塩気がほど良く豊かな味わい。

 主菜は魚料理と肉料理の二品だ。魚料理は、長江河口で水揚げされる上海蟹を用いたフリカッセで、素材をクリームであっさりと煮込んだもの。桃のシャーベットで口直してほどなく、肉料理が出てきた。雉肉のソテーだ。中国安徽省産で香ばしい。そこに甘く酸味甘いオレンジソースが香りを引き立てていた。

 デザートは、洋梨のコンポートで、赤ワインの渋みで甘さを抑えていた。インド紅茶のダージリンが添えられる。

 中居は佐藤にいった。

「先輩、フランス料理を誤解してたっすよ。ナイフとホークをうっかり揃えたりでもしたもんなら、『まだ食事中だ』といっても、ウェイターがすました顔で下げちまう。あるいは、小出しするからフルコースをとっても腹がいっぱいにならない。そんな話しはみんな嘘っぱちですねえ」

「そうだ。食いもしないで知ったかぶりをした連中がデマを流す。ゆったりと会話を楽しんだりして雰囲気がいいんだ」

 シナモンが佐藤たちのほうをみた。

「佐藤様に中居様、料理がお気に召したようですね?」

 佐藤と中居が顔を見合わせた。

「レディー・シナモンの日本語がまた上手くなった。こっちの話していることを理解している。三週間で一か国語をマスターするって話しは嘘じゃない」

 エドガー博士が微笑んだ。

 ところで、姫君と三人の騎士たちがいるテーブルの相向かいには、肥った夫人が陣取っている。香水の匂いがきつい。シャネル五番。いかにもゴシップ好きという感じだ。

 佐藤は思った。

(このセンス、アメリカ人か?)

 シナモンが夫人に話しかけた。

「もしかして、アームストロング夫人ではありませんか?」

「やっぱり、レディー・シナモン! 私もさっきから気になっていたのよ。殷墟の観光ツアーは楽しかったわ」

 佐藤が中居にささやいた。

「うるせえ婆さんだな。中居、おまえより上手がいるぞ」

「そりゃどうも」

 エドガー博士が若い貴婦人に訊いた。

「お知り合いかね?」

「はい」

 その人が困った顔をして笑った。アームストロング夫人の物いいは、機関銃のようだ。

「巨大地下宮殿の真ん中には王の棺跡がありました。囲むように殉死した貴族たちの遺体が並べられています。さらに周りには、首を切られたおびただしい奴隷たちが横たわっているではありませんか。なんて残酷! 子供の骨まであった。かわいそうで、かわいそうで、涙が止まりませんでしたわ」

 中居は、夫人の喋り方を意に介しないようだ。閉口している佐藤に質問した。

「殷墟って?」

「古代中国・殷王朝の都跡だ。中国の歴史書も古くなると伝説と混ざってしまう。実在が疑問視されていた。ところが最近、河南省安陽県から発見されて騒ぎになったんだ。王墓が発掘されている」

 佐藤は、ウェイターが注いだワインをゆっくり口にした。


 殷墟は、東西を横切る安陽河を挟んで南に都城、北に王墓とに構成されていた。王墓は、巨大な地下構造をしていた。平面形は漢字の「亜」に、断面形は階段状になっていた。発掘調査は、一九二八年に開始された。三八年に第二次世界大戦のため中断し、五〇年に再開。七〇年代にほぼ全容が明らかになった。この物語が一九二九年であるから、旅行者たちは発掘作業風景を垣間みることができたのだ。

 シナモンは、少し前に書いた手紙の内容を思い出した。


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