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レッドバロン専用機
一九一六年下半期に行われた「ソンムの大会戦」は消耗戦だった。連合軍は、六十万人もの死傷者を出したものの、枢軸軍をソンム川の対岸にまで敗退させることに成功。気をよくして、翌年四月に前進を開始した。フランス側との協議によって、イギリス軍は北フランス・アルトワ地方アラスを攻略。陸軍航空隊は、砲兵部隊支援と偵察のため、二十五個飛行隊三百六十五機を投入する。このうち八個飛行隊が戦闘機隊だった。
航空隊の大尉だった儂は、麾下の中隊十二機と編隊を組んでソンム川上空を飛んでいた。隊伍を構成していたのは単座複葉戦闘機パップだ。木製の骨組みに布を張っただけの構造で、機銃一挺が装着されていた。
「塹壕って奴は、空からみると脚を広げた蜘蛛が群れている地上絵のようだな」
そうつぶやいた瞬間、横合いに赤い小さなものがみえた。刹那、部下の四機が火を噴き墜落だす。
敵も同数。戦闘機は三葉機のフォッカーDr.I。全機が赤く塗装されていた。ドイツ帝国第十一戦闘機隊。指揮官マンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉。『レッドバロン』の異名は男爵家の御曹司であるからだ。
まるでサーカスだ。一撃を加えた奴の飛行隊は、とんぼ返りをしてまた頭上から襲い掛かってくる。速い。わが部隊に勝算はなく、退却するより選択肢はない。
儂は、生き残った部下たちに、散開して逃げるよう合図した。『レッドバロン』は間違いなく、儂の乗った隊長機を襲ってくるだろう。そしてそれは現実のものとなった。
牧草地帯で、川の両岸は緑が茂っている。儂は水面をすれすれに飛び、何とか振り切ろうとしていたが、奴は執拗に追跡し、後尾について機銃を掃射。何発かが翼や胴体に被弾。あと少しくらえば、機体は空中分解する。
そのときだ――
姫様、貴女の父上の部隊が、敵戦闘機隊の横から挑みかかった。奴の部隊は戦線を離脱し、儂は九死に一生を得たんだ。
『血の四月』と呼ばれることになる一か月間のドッグファイトで、イギリスは二百四十五機を失った。このうちリヒトホーフェン大尉麾下のドイツの第十一戦闘機隊は、八十九機を撃墜し、大尉自身は二十一機を撃墜した。ドイツ側損害は六十六機だ。
船長は涙目になってつぶやいた。
「『レッドバロン』から花環なんぞ贈られるより、こうして姫様と並んで飛行船を操縦しているほうがよっぽど名誉じゃわい」
司令ゴンドラからは、夕日に映える東シナ海が望め、海面の照り返しで飛行船船体もオレンジ色に染まっているのがみえた。船長は、何かを見つけたのか、「おっ!」と声をあげて、ハンドルを回し飛行船の高度をさらに下げた。
好奇心旺盛な数十頭からなるイルカの群が、オレンジ色になった波間を飛び跳ねながら飛行船の後を追いかけてくる。やがて陽が水平線の彼方に隠れ。暗くなった海面を一列に並んだ貨物船の明かりが連なって、あたかも海岸線の街明かりのようにみえた。
夕食の時間が近くなった頃、船長はスチュワートのミシェルを呼んで姫君を部屋まで送り届けさせた。