偽善
朝の8時からランドリールームのスツール椅子に腰かけて、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」を読む。ひとりよがりな夫が妻の浮気をうたがって殺害してしまう話だ。真っ白なこの部屋には似つかわしくない話だ、と思う。
義父がランドリールームに入ってきた。洗濯をしに来たわけじゃない。片手にコーヒーを持っていた。
「ここにいるのが好きなんです。泊まりにきた人を観察するのが好きで。みんな幸福そうで、寝ぼけた顔をしているから」
ナミが半分でまかせを言う。
宿泊客の安堵したような、穏やかな顔つきが好きだった。非日常の空間にいることを思い知れるから。
だがナミは、もうこのホテルから逃げ出したくなっていた。早く、こんな浮き世ばなれした場所から遠くへ行きたい。制服のプリーツスカートがなつかしかった。ほこりっぽい教室や先生たちの叱る声が。
義父はナミの持つ文庫本にチラリと目を走らせた。日焼けした肌。わずかに薄くなりかけた髪。額のしわと鋭い目がどこか疲れて見えて色っぽい。ナミはゆっくりと微笑んで義父を見つめた。
「トルストイじゃなくてドストエフスキーを持ってくるべきでした。そっちの方が男性が魅力的だから」
「魅力的?」
男の目尻にしわが寄る。
「さあ。本当はよく知らないんですけれど。ドストエフスキーの本には破滅的で魅力的な男性がいっぱい出てくるんです。ギャンブラーとかものすごく金遣いの荒い人とか。トルストイのは偽善的でナルシストでいや」
「へぇ」
義父が温度のない声で言った。
なんでこんな話をしたのかわからない。いつになく饒舌だ。




