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完全な暗闇、というものを見たことがあるだろうか?
俺はいま、そこに居る。
自分の手を顔の前に持ってきても、輪郭すら確認出来ない。
なにがあってここに居るのか、それまでなにをしていたのか、そしておかしなことに、自分が誰なのかすら釈然としなかった。名前があったはずなのに、まるで思い出せなかった。
(さて、どうしたものか…。)
どうもこうもない。周りになにがあるか、誰か、あるいはほかの生きものがいるのかどうかもわからないのに、むやみに動くべきじゃない。ゆっくりと身をかがめて、地面を触ってみた。地下鉄の構内のような、冷たく固い感触が俺の手を受け止めた。そのまま少し撫でて、そんなに汚れることもなさそうだと思い、どっかりと腰を下ろす。
疑問符が許容量を超えると、人間意外とあっさり開き直れるものだ。わけがわからない、どうにでもしてくれ―そういう気分だった。
それが、最初の景色だ。
どれくらいの時が過ぎただろう?腹も減らなければ、疲れることもなかった。睡魔や、体調の変化など、そんなものもまるで感じなかった。それどころか、ずっと同じ姿勢で座っているのに、痺れたり、強張ったりするようなこともなかった。ここはいったいなんだ、と、その時初めて思った。
(精神世界というやつだろうか?俺はいま肉体を持たず、魂のみでここに座っているのだろうか…?)
とりあえずそういうことにしておこう、と決めて、では問2。なんのためにここに?
それはきっと、これからわかるのだろう。
俺はじっと待つだけだ。なにしろ肉体的な不都合というものが皆無なので、のんびりやるさ。
のんびりさせてもらえなくなったのは、それからまた少し時が経ってからだった。
それにしても、なにも見えないというだけで、時間の経ち方もずいぶん違って感じられるものだなぁ…それは時間というより、「時」と言うほうがしっくりくる、大きな波のような動き方だった。
音がした。
そんなに大きな音じゃない。聞き間違いかと思えるくらいの小さな音だ。俺は耳をすました。
聞き間違いじゃない、確かになにかが近づいて来ている…。子犬ぐらいの大きさの、なにか。音はひとつじゃなかった。俺はなるべく音を立てないように立ち上がった。
どんっ、と、右脚のふくらはぎあたりになにかが体当たりをした。
バレーボールみたいな感触だった。
反射的に前へと逃げたが、同じものにつまづいて転んだ。
「いてて…」
とか言ってる間にまた、どんっ、どんっ、と、続けて当たってくる。なんなんだよ、もう。
俺は目を閉じた。開けていても見えないのだから同じことではあるが、まあ…気分的に?集中しやすいかなみたいな。とにかくどこからどう来るのか、音さえ聞こえればわかるんじゃないかと思ったからだ。
とっとっとっとっ…という音が聞こえてきた。右斜め後ろあたり。
足をそのあたりへ突き出してみると、なにかが足の裏にぶつかり、ぽーんぽーんと跳ねて、ぱんっとはじけた。
(殺したみたいで気分悪いな…。生きものかどうかもわからんけど。)
そう思いながらも同じ要領で四つ、バレーボール的ななにかをやっつけた。
しばらく立ったまま耳をすませてみたが、それきりどんなことも起こらなかった。もしかしたら明るくなるかもしれないなんて考えていたけれど、そういうこともなかった。また待ってみるしかない。俺はもう一度腰を下ろした。