リリィの指輪
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「あれ、指輪は?」修理中?なんて無邪気に問いかける友人にリリアンも無邪気に微笑んだ。「すててしまったの、もういらないから」あまりに無邪気にいうリリアンは誰の目から見ても痛々しかった。
別に、リリアンは夢見がちだった訳ではない。自分を一番に愛して、なんて言うつもりだってなかった。けれど、それは、そんなことをねだる必要のないほど、恵まれていたからだったと思い知った。リリアンを見ながらリリアンじゃない人を見る人とはもうこれ以上一緒にいられない。心が壊れる、なんて華奢な表現は似合わないと思うが、リリアンは発狂しそうだった。
「リィ、」リリアンの旦那様はリリアンをそう呼ぶ。初めて会ったときからだ。見惚れるほど整った顔立ちの大人の男の人に甘やかな声で蕩けそうに微笑まれて「リリアンは可愛いらしいね、リィって呼んでも?」なんて言われたら誰だってコクコクと首を縦にふることしかできないと思う。けれど今リリアンはそれを後悔している。
リリアンはしがない子爵家の末娘だ。兄が家を継ぎ、姉は有力な貴族のもとへ望まれて嫁いでいった。両親の良いところばかりをとった姉は社交界では大層評判がよかったようだ。デビュタントで、騎士団長の子息である侯爵家長男に見初められた。我が家としては陞爵以来の快挙であるが、姉が子爵家にも関わらず侯爵家に嫁ぐことができたのは弱気と言っていいほどの堅実な領地経営を営んできたからである。薬にはならないが毒にもならないと判断されたようだ。侯爵家の伝統として血筋にはそれほどこだわりはないということだから問題はないのだろう。さて、そんな姉を見てきたにも関わらず、あるいは見てきたからこそ、リリアンは結婚に夢など見ていない。姉がそうだったから自分も、なんて思うような思考回路はしていない。姉の結婚は人に一度あるかないかの奇跡のそれだと理解している。そして両親も兄もリリアンにはほどほどを求めた。侯爵家へ嫁いでいってしまった姉はもう、侯爵家の人間だから滅多なことでは会えないらしい。だからリリアンにはいっそ平民との結婚でもいいから遠くには行くな、そう望んでいる。とはいえ、本当に平民に嫁ぐことはできないと思う。しがない子爵とはいえリリアンは貴族の娘で、人から傳かれる生活に慣れきっている。だから、よほど裕福な商人でない限りリリアンは平民へ嫁ぐつもりはない。裕福な商人は我が家など相手にしないから、したがって選択肢としては同程度の家柄を考えていた。
しかしリリアンはデビュタントの夜会で公爵に見初められた。
本来、上級貴族と下級貴族が交じり合うことなどほぼない。それほどに身分差がある。リリアンの姉は特級の特別だ。しかしデビュタントだけは違う。王家主催のその夜会ではデビューを控えた子息、令嬢のいるおよそすべての貴族が集う。リリアンはそこで姉夫妻に出会った。相変わらず仲睦まじい様でリリアンは安心した。そこで姉夫妻にとある人物を紹介された。それが公爵だった。義兄の古くからの友人だというその人はまるで物語の王子様みたいだった。義兄の計らいで、リリアンは公爵とファーストダンスを踊ることになった。元々兄にお願いをしていたが、公爵に見惚れているリリアンに義兄が気を利かせてくれたのだ。公爵にはエスコート相手はいないということだったから、リリアンは甘えることにした。リリアンも年頃の少女であったから、夢心地で思い出にしようと思った。公爵はエスコートが上手いだけでなく、リリアンをまるで物語に出てくるお姫さまのように扱ってくれた。曲が終わりリリアンが礼をとって下がろうとしたとき、公爵は再びリリアンをダンスフロアへと誘った。2度続けてダンスを踊るのは婚約者や夫婦だけだ。リリアンは困惑したが、魅惑的な公爵の笑みに何も言えず為すがままだった。さすがに3曲目を踊ることはなかったが、公爵はリリアンにリィと呼んでいいかと尋ねた。リリアンはただ頷くことしかできなかった。
それからはあっという間だった。翌日には正式に公爵から婚約の申し出があった。公爵はリリアンよりも15年上で、そのこともあって婚約期間は通常よりも短かった。両親や兄は渋ったけれど、格上の公爵に何を言える訳でもなく、リリアンが事態についていけないでいるうちにリリアンと公爵は夫婦になっていた。どこか諦めたように見送ってくれた両親や兄に何も思わなかったわけではないけれど、リィ、公爵にそう甘く囁かれるとそれも霧散してしまった。
リリアンの左薬指には公爵のくれたピカピカの綺麗な結婚指輪がある。リリアンは暇さえあればそれを眺めているので、友人たちには笑われてしまう。また、リリィが指輪を見てるわ、と。それでもリリアンは指輪を見てしまう。どこか現実味のない夫婦の証だからだ。
リィ、そう甘く呼ぶ公爵との結婚生活は順風だった。公爵は忙しいらしくあまり家にはいない。けれど熟練の執事や使用人たちにはよくしてもらっている。下級貴族のリリアンのことなど気に入らないだろうにおくびにも出さない。そもそも一流の使用人である彼らは、自身の感情で仕事を疎かにするようなことなどないのだろう。ただ、侍女頭は少し苦手だった。初めて挨拶をした時、彼女はリリアンにはっきりと告げた。似つかわしくない、出ていった方がよい、と。そこらの貴族よりもよほど貫禄のある侍女頭に言われリリアンは腰が引けてしまったが、それ以降は何も言ってこない。物言いたげな視線は感じるが。内心苦手に思っているが何をしてくるわけでもないのでリリアンは気にしないことにした。女主人としての勉強が大変で気にしていられなかったこともある。出会ってから結婚するまでの期間が短く、そもそもあまり一緒にいたことがなかったこともあって、リリアンはあまり公爵が家にいなくても寂しいとは思わなかった。なぜか、リリアンは王女殿下の覚えめでたく、そのため社交も順調であった。上級貴族が集う夜会でも皆親切だった。下級貴族のリリアンはただでさえ王子様のような公爵と結婚したのだ。物語にあるように絶対に意地悪をされるとばかり思っていた。けれど、そのようなことをされることはなかった。ただ、皆優しいけれどもどこか同情されているか、痛ましいものを見るような目線が時折気になった。
珍しく公爵が家にいるので、一緒に午後の休息をとることになった。変わらず公爵はリリアンをリィと甘く呼ぶ。愛しいものを見る目で見つめられリリアンは落ち着かなかった。そわそわと目線を泳がせていると、ふと公爵の右手小指の指輪が目に入った。侯爵は左薬指には指輪をしていない。リリアンとお揃いのあのピカピカの結婚指輪はしていない。公爵の右手小指の指輪は、年季の入ったくすんだ色をしている。何気なくリリアンは聞いた。別にリリアンとお揃いの指輪を公爵がしていなくたって何も思わなかった。男性の中には結婚指輪をしない人もいるからだ。それでも右手小指にはしているから気になっただけだ。「旦那様、右手の指輪は何か特別なものでしょうか。見かけない意匠です。」リリアンが尋ねると、公爵は少し驚いたような顔をしてそれからとても優しい顔になった。「これはね、とても大事なものなんだ。何よりも大事なもの。」そういって公爵は指輪を優しく撫でた。リリアンは何も言えなかった。公爵に目が釘付けになってしまって惚けてしまったからだ。公爵はリリアンを見るときよりも一層優しい顔で指輪を見ていた。リリアンはなぜだか胸が苦しくなった。
ある時、領地の資料が必要で公爵の執務室へと入った。入ったことはなかったけれど、特に鍵も掛かっていないし特段禁止されてもいなかった。公爵の留守中に入ることは気が引けたが、それよりも資料の方が急を要していた。そして目当ての資料を見つけ部屋を出ようとしたとき、壁に飾られている一枚の姿絵が目に入った。リリアンは自分に似ている、そう思った。けれど、絵のなかの少女はリリアンよりもずっと美しかった。ただ栗色の緩く波打つ髪や榛色のくりっとした瞳はリリアンによく似ていた。「リーゼロッテ」と書いてある。絵のなかの少女はリーゼロッテというらしい。リリアンはひどく嫌な感じがした。
その日の夜、下がろうとする執事に尋ねてみることにした。公爵家に古くから仕えている彼ならばあの絵のことを知っていると思ったからだ。「ねえ、リーゼロッテって方知ってる?」ほんの一瞬執事は硬直したが、その後何事もなかったように答えた。「申し訳ありません、私にはわかりません。」本当に何も知らないかのように申し訳なさそうにしている執事にそれ以上は尋ねられなかった。けれど、リリアンは一瞬硬直した執事に確信した。絶対に何かある、それも執事が隠したくなるようなことが。
リリアンはこれまで以上に社交に熱心になった。色々な人の話に耳をそばだてるようにして知りたいことを知ろうとした。そして、公爵に近しい人たちから、リズ、という愛称が聞こえてくることが多いと思った。リズ。リーゼロッテ。リリアンは賭けに出ることにした。公爵と仲の良い侯爵と話をする。侯爵は社交的で人好きのする人で、リリアンにも気さくに話しかけてくれる。「王女殿下がリリアンに会いたがっていたよ。」「まあ、光栄ですわ。お呼び頂ければいつでも参上いたしますとお伝えくださいな。」「王女殿下も、リズ、いやなんでもない。リリアンはとても落ち着く雰囲気があるから、」言い繕う侯爵にリリアンは言う。「リズ様には及びませんわ。」侯爵は驚いたような顔した。「リズのことを知っているの?公爵が言ったのかい?」リリアンは微笑んだ。その笑みを見て侯爵は一人納得したように頷いていた。「そうか、」「あの、侯爵様、リズ様のことお話していただけませんか。」「私から話していいものか、、公爵から、」侯爵が言い切らないつちに悲しげに首をふれば、侯爵は慮ってくれた。「…そうだよな、すまない。公爵からなんてデリカシーのないことを言ってしまった。」そうして侯爵はリズ、リーゼロッテのことを話してくれた。
「リーゼロッテ、リズは公爵の従姉妹で王女殿下とも仲がよかったよ。波打つ栗毛の髪と榛色の瞳が美しい少女だった。もちろん、君の方が可愛いよ。…リズと公爵は恋仲だったと思う。公にこそしていなかったが婚約もしていたしね。公爵はリズのことをリィ、そう呼んでいて、他の誰にも呼ばせなかったな。けれど、リズは呆気なく逝ってしまったよ。流行り病でね。それから10年以上公爵は独り身を貫いた。リズのことが忘れられなかったのだろう。皆公爵はこのまま独りでリズを想うのだと思っていた。けれど、そこにリリアン、君が現れた。公爵は君に夢中だ。公爵の周りの人々は皆君に感謝しているよ。もちろん私もね。」
それからなんといって侯爵と別れたかわからない。けれど、別れ際侯爵は重い秘密を明かしたようなどこかスッキリと晴れ晴れとした顔をしていたことを覚えている。だからきっとリリアンは笑顔を崩さずにいられたのだろうと思う。心が壊れそう、なんて言うわけではないが、リリアンは発狂しそうだ、そう思った。
不思議と涙は出なかった。それどころか、納得が行った。リリアンならば、リリィが普通だ。家族も友人たちもリリィと呼ぶ。なぜ、リィ、なんて呼ぶのだろう。なぜリィと呼ぶことを許してしまったのだろうか。
分かってしまえばあっという間だった。公爵は今もリーゼロッテを忘れてなんかいない。私を通してリーゼロッテを見ているのだ。私との指輪なんかするはずもない。私など見ていないのだから。右手の指輪はリーゼロッテとお揃いの指輪だ。もう一度みた姿絵にちゃんと描かれていた。
「リィ、」公爵に甘く呼ばれてその瞬間吐いてしまった。公爵も使用人たちも一様に驚いて直ぐ様医師が呼ばれる。医師には過度のストレスだと診断された。病でないとほっとしたようだったが、心配そうにこちらを見る公爵が気持ち悪くて仕方なかった。侍女頭に1人にしてもらうように頼む。心得たように公爵を追い出してくれた。侍女頭の心配そうな顔が目に入る。「あなたの言った通りだったわ…」リリアンがポツリと言うとなぜか侍女頭のほうが泣きそうな顔をした。
リリアンは部屋にある置物で何度も何度も指輪を叩き潰した。ピカピカだった指輪は表面は傷だらけになったがなかなか壊れなかった。侍女頭に頼むと、何も言わずリリアンの願いを叶えてくれた。街へ出掛けたときリリアンはそれを意図的に落とした。しばらく目で追っていたがやがてどこにいったかわからなくなった。
「あれ?指輪は?」リリアンの友人がリリアンに尋ねる。久しぶりに会うリリアンはどこか憂いがあって美しくなっていた。けれどなにか違和感があった。前までは気がつけば熱心に指輪を見ていたのに、その指輪がなくなっていたのだ。手入れにでも出しているのかと何気なく聞いた。するとリリアンは無邪気に微笑む。「なくしてしまったの。いらないから。」それ以上何も言わせない迫力があったが、微笑むリリアンはどこか痛ましげだった。友人もそれ以上は何も聞かなかった。
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