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僕の落とした左手を  作者: 宇野 伊澄
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 耳元でしつこく鳴り響くアラームの音に、脳が覚めた。瞬時に音を止めて体を起こす。まだ目が半開きの状態で時計に目をやる。午前十一時だった。


 正直寝る前までの記憶はほとんどないのだが、完成した絵は確かに意味の籠った線を描いていた。一通り絵を眺めて頷くと、他の絵に加えてアトリエに飾った。頭を掻いて立ち上がり、部屋で水をひと口運ぶ。呑み込んでから長い息をつき、なんとなく部屋の中を歩いてみた。ベッドにソファ、キッチン、風呂場、机のまわり、窓の傍。どこに行っても、要の香りが残っていた。

 

 僕は咄嗟に首を振った。だめだ、いまなら目を瞑っただけで過去にタイムスリップしてしまう。そうなったら確実に、寂しさしか残らない。


 洗面所で顔を洗い、無理やり目を覚ました。ポケットの中が小さく震えた。取り出して携帯を開く。宏斗からただ一言、大学来い。とそれだけだった。

 ふたを閉じ、なにも考えずすぐにコートを羽織った。こんな時は気を紛らわせるしかない、それが一番だと思ったのだ。アトリエを抜け靴を履いている最中、背後でカタンッとぶら下げられたたキャンパスの一つが落ちた。


「え?」


 天井近くの高い位置に飾られたもののようだ。もとに戻そうと靴を脱ぎ捨て駆け寄った。うつ伏せになった絵を拾い上げる。絵を目隠しする布も一緒に落ちてきたので、なんの絵なのかはすぐにわかった。


 あぁ、これか。


 手に取ったそれは、僕がもともと用意してあったクリスマスプレゼントだった。ほんとうは十二月二十五日にこれをあげるつもりで見えない様にして飾っていたが、タイミングを見失って結局そのままになっていた。


「これ、やっぱりあげるべきだったかな」


 それは奇跡の右手の代表作の下書きに当たる絵。要が会いたいと言っていた昔の僕が描いたものだ。これを渡せばもちろん要は喜んでくれるだろう。

 だけど、それで彼女が昔の僕に会えたことになるのだろうか。


 ふと、最後に要と話をした時に、彼女が残した言葉が頭を過った。


「水無瀬さんはまだ諦めなくてもいいと思います!」


 有名に、なること。


 確かに有名になれば、要は泣いて喜んでくれるかもしれない。

 右腕を失った『奇跡の右手』が、再び返り咲くことができたら。事故にあったその日から、当たり前のように諦めていた道を、堂々と歩くことができたなら。


「最高、なんだろうなぁ」


 脳内で妄想を繰り広げる。レッドカーペットなんか歩いたりして。……いや、それはちょっと恥ずかしい。だが、緩む口角に気づいてしまった。


 僕は、また有名になりたい、と。


 コンクールに出したいわけではない。賞がもらいたいわけではない。ただあの頃の輝きに触れたいという穴だらけの欲望を、どう埋めればいいんだろう。


 頭を悩ませながら絵をもとの位置に戻す。少し奥に踏み入ったからか、なにかつるつるとしたものを踏んづけた。これは……便箋だ。拾い上げるまでもなくわかってしまうのは、心の中でつっかえていたものだったからだろう。


「四谷先生からの、手紙」


 僕が事故で右腕を失くした数日後、つまり六年前にもらった手紙だった。何度も読みこんだために内容は濃く覚えている。たしか……。


 記憶を一文ずつ蘇らせていく過程で、半開きだった口がみるみる大きく広がっていく。四谷先生のその言葉は、今の僕にとってとても重要で、必要なものだった。そして先生が大学に訪れた際に掛けてくれた、


「あなたがまたその気になっていただけたら、その時は全面的に協力させていただきたいですね」


 これを信じるのなら、四谷先生にすべてを託すのなら。


 気が付けば僕は手紙を握りしめ、扉を開けて駆けだしていた。もしかしたらもう、間に合わないのかもしれない。だけど、今は走りださなければ掴みかけた希望すら手放してしまいそうで、息を切らした。


 駅へ向かう途中、近くで鳴る足音にふと振り返ると、目にしたものに思わず声を上げそうになった。

 要だった。どうやら僕の存在には気づいていないようで、母親の千賀子とともに二人で歩いていた。お互い荷物を持ち合い、満面の笑み、とは言い難いが、穏やかな表情で語り合っていた。そのまま住宅街へ消えていく。


「要ちゃん、うまくいってるんだな」


 ほっと胸を撫で下ろす。寂しさと嬉しさが入り混じる感情に、もう一つ大きな勇気が加わった。

 四谷先生に会いに行こう。

 僕の諦めていた夢が、彼女の叶えたい夢が、現実になるかもしれない。

最後までご覧いただきありがとうございます。

ご感想・アドバイス等いただけると嬉しいです。


明日も午前・午後にそれぞれ一話ずつ投稿する予定です。

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