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僕の落とした左手を  作者: 宇野 伊澄
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 学校へ要を送り出し、僕は一人、広いアトリエの天井を見つめ悶々としていた。


 彼女が心を開いてくれたことには内心飛び跳ねるほどの喜びを感じていたが、実際に痣に触れ、その背景を知って鉄砲で撃たれたような衝撃と胸苦しさを覚えた。


 今でも痛みに堪えたようなあの表情は頭にこびりついて離れない。その姿を目の当たりにしても、あの場でなんの上手い返しもしてあげられない僕はなんて無力なのだろうと悟った。


 改めて自分に問う。要ちゃんのために、僕が今できることはなんだろう。


 正直、一つしか思いつかなかった。

 自分にしかできなくて、彼女が絶対に喜んでくれることなんて。それはもうずっと前からわかっていたことだ。今更必要ないからとか、そんな言い訳もうしなくてもいいかもしれない。


 傷を癒す時間は充分にあった。立ち直る時間は充分にあった。


 そろそろ僕は、変わってもいいのではないか。


 腰を上げ、棚の上のコーヒーの空き瓶に入れられた筆を手に取った。

 久しぶりの感触に背筋が伸びた。息を吸い、ゆっくりと鉛筆を持つ形で固定させる。そのまま空で、イメージのまま筆を動かした。頭の中では、それらはきれいな線を描いていた。


 今なら、変われる気がする。


 即座にアトリエの中を漁り、白いキャンパスを探した。

 描けるものなら何でもよかった。夢中で探しているとき、ふと目に留まった絵があった。


 これなら、この絵なら描ける。描いて見せる。


 引き出しから大量の絵の具を出し切り、パレットの上に全部開けた。対象の絵を床に置いて筆の入った缶で絵の端を固定する。そしてまた、先ほどの筆を指にセットした。


 人の絵に自分の絵を重ねることなんて初めてだった。いくら知らない人の絵とはいえ、こんなにも緊張するものなのか。いや、単に久しぶりに描くからだろうか。


 どちらにしても、最初の一筆がどうしても描けない。

 イメージはできているのに、手が、腕が、震えていた。


 その格好のまま、三十分ほどが経っていた。僕の頭の中は、要でいっぱいだった。でも、頭の中の要はどうしても、笑顔とは真逆の顔ばかりしていた。


 要は今、変わろうとしている。彼女はつたないながらも虐待のことをすべて話してくれた。会わなくなった五日間、相当悩みぬいたのかもしれない。


 これからも彼女と一緒にいるのなら、安逸をむさぼっているわけにはいかない。ここで変わらなければまたあんな顔をさせてしまう。


 僕はもっと、要ちゃんの笑顔がみたい。

 

 僕は左手に渾身の力を込めた。震えを止めてくれる右手などない。


「動け動け動け動け動け動け動け動け!」


 左手に、思い切り叫ぶ。


「怖くない。怖くないから。この絵は、この絵だけは!」

 

 徐々に、筆は絵に近づいた。震えは止まらなかった。それでも必死で、前へ動かした。

 

 最初の一筆は、大量の涙を流しながらだった。

最後までご覧いただきありがとうございます。

ご感想・アドバイス等いただけると嬉しいです。


次回に続きます。

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