「所詮、人間は分かり合えない」を僕は今となっては否定する
寝る前、眠れない時よく思う。
人間はお互いわかっているようで分かり合えないのではないかって。
僕の事がわかってもらえていても、僕は君のことはわからないのではないかと。
だから人間は単純に二つに分類されるのだなって。
僕のような人間とそうでない人間とに。
僕は人の顔色というものを、かなり窺う。処世術ではないのだけど親に教わったそういう物ではないのだけど単純に遺伝子レベルの性格と切りつめて言ってしまったらそれまでなのだけど、例えば友人達とつるんでいる時、なるべく人間の本質に関わるような話は避けている。
そういう事を話す事自体はすごく好きだ。だけどそれとない会話をして、例え上辺面ではない大切な友達と一緒でも、なるべく避けるようにしている、僕は。そして、なぜかふと友人とそういう話になると、その友達とは朝まで語り明かしてしまう。僕はその時間がとても好きでかつ、そのような友達ともそうでない友達とも繋がりを持つようにしている。それが僕の生き方だから。
しかし日頃はなるべく友達とは争い事を起こさないようにしている。
なるべく人に怒らないようにしている。
去る者は追わず来るものを拒まないようにしている。
だから人には優しく接するようにしている。
そうするとつけあがって調子に乗る友達も出てくる。
もちろん、わけへだてなく接しているが、そういう友達を拒めない自分がとても嫌になる事もある。
なぜだろうと思うことは多分にある。
無性にこんな自分にひどく嫌悪感を持ち、自分自身がとてつもなく嫌いになることがある。
だからと言って自分を他人にはできないし、自分で自分を変えようと啓発してみても三日で終わることが多い。
だから僕の心には、ある自分だけの結論、人生の教訓がある。
なので、自分のアイデンディティを叫びたいことがよくある。
要は、僕は恋人でも親友でも両親でも信じることができない。
このような事を生きる箇条にすることに行き着くまでには次のような経緯があった。
僕には自信がない。容姿とかはそんなものはどうでもない。そんなものはどうでもいい。
本質的な、中身というものに自信がない。自信がないから大概新しいものに向かうことができない。
自分が信じられないから自信がない。だから結局自分を信じられない人間が自分ではない他人を信じることができるのかという話になってしまう。
結果、無論信じられる筈がない。そんな方程式が僕の中に出来上がっていた。
それを大切な人に言うと当然、怒られるか、悲しいこと言わないでよという話になってしまう。
だけど最近自分のこの考えに大きな間違いがあるという事に気付かされて自分自身で大変な過った考えをしている事を知った。それはある友人の一言からだった。とても…大切な…。
僕の友達のIは高校からの友達だ。親友というわけでもないあれふれた友達だ。
地方でも有数の有名校に進学した僕は彼とそこで出会った。
同じ学び舎で勉学に精を出し、青春を謳歌する僕と彼には決定的な違いがあった。
彼はいわゆる古い言い方での三高であった。
まず言うまでもなく彼は優秀であった。校内模試だけなく対外模試でも彼は優秀で知らない名前がずらずらと並ぶ全国成績優秀者一覧に彼の苗字と名前を載せていた。ルックスも男からみても好感を持てる顔で、かっこいいの部類に入っていた。言うまでもなく僕にない背の高さというものもあった。スポーツに関しても神は彼に才を与えた。僕と彼は同じテニス部に所属していたのだが彼は努力とセンスで団体戦にスタメンを任されていた。部活内での彼の能力に関しての信用も充分なものであった。スポーツマンシップに溢れる彼には信頼というものがあった。
しかしそれだけでなく僕が彼にもっとも惹かれていたのは彼の寛容でユーモアのセンスがあり、優しい人柄であった。
僕から見たら彼は僕にないものを、何もかも持っていた。
彼と笑顔で話す時、彼に好感を持ちつつ潜在的に心の中は嫉妬というジェラシーで満ち溢れていた。
つまり彼は僕の中で目標であり憧れであり口では説明できないこう…言いようのない、なにかであった。それは25歳になった今でも継続していた。
ありもない自分を彼に投影し続けていた。
彼は僕の中で越えられない壁で越えてはいけない壁であった。
彼はその後、受かるべくして大学に合格し、なるべくして医者へのステップを着々と歩んでいった。その間、僕はクルクルと駅のロータリーを回り続け何一つ前進していなかった。
彼から医師国家試験の合格の知らせを聞き僕は本当に嬉しく彼を祝福した。僕には彼を嫌う理由はなにひとつなかったからだ。
彼を見ていると彼は自信に充ち溢れていた。僕も幸せであった。
自信のある人間を見ていると魅力的と感じるようになった所以はそこからだ。僕にとって彼は眩しすぎて手の届かない人間になりそうであった。もしそうなったとしても僕は彼を恨む気は持てなかった。それほど彼はいわゆる「いい奴」だったからだ。
久し振りに二人で会った時、その彼と初めて前述のそういう、いわゆるそういう深い話になった。煙草くさい僕の部屋で僕らは語り合った。僕は彼に長年の燻りと僕のすべてを語った。もちろんその話は深夜までおよんだ。
全てを彼に話した後の彼の眼は印象的であった。他愛のない馬鹿にするようなおちょくっているようないつもの僕らの関係の眼であった。当然ながら僕は彼に憤慨していた。僕としては洗いざらいにすべてを語り、自分を裸にしてきれいな部分でなくむしろ汚い部分を彼に語った。僕としては真剣に優しい言葉をかけて慰めてほしかった。
しかし彼の次の話を聞くとそれは納得がいき、改めて彼を友人から尊敬の対象とし、そして彼が本当に僕と同じ小さく、そして繊細な人間だということがわかった。
彼も僕と同じだった。
「あのさぁ。お前の言う自信に満ち溢れている人間が魅力的ってそれはすごく理解できるのよ。俺をそう思って俺に魅力をもってくれていたのなら俺もすごく光栄だよ。だけど、お前の自信がないから自分を信じられない、そしてだから他人も信じられない、それは間違っていると思うよ。自信って自分を信じるのではなく、自分を信じようとする事それ自体もいれちゃいかんの?じゃないかな?自信があるってそんな、どんなに容姿が優れていてもどんなに性格がよくてもそいつは自分自身の容姿や性格に自信はないぜ。もし自信があるとしたらそんなチンケなものに、それはアン・アンの抱かれたい男部門に載っているやつか、とんでもない勘違い野郎だ。お前は他人を信じてもいいんだよ。いい人間なんだよ。
どんな奴でも自分の好きな部分と嫌いな部分はあるよ。そしてお前の言う自信があるという人は自分の好きな部分で嫌いな部分を補っている人だよ。だから自信があるんだよ。
どんな人間にもコンプレックスは必ずあるよ。要はそういう自分を受け入れ自分を主張できる人間がお前の言う自分を信じられる人間、すなわち、自信がある人間なんじゃないかな。俺なんてさ、相当自分になさけないよ。毎日思っている。人間関係から生き方一つとっても。第一俺は医者になりたい人間でもないからね。自分に正直になれない。これは結構きついものだよ。俺はなかなかこんな自分を正直受け入れてないよ。」
その日からというもの自分の悪い部分ばかり見ている自分を捨て、自分の良さを見直すことにした。自分を受け入れる努力をするようにしていった。雀の涙ほどだが自分にもそれなりのものを探せた時、僕は久し振りに前に進めた気がした。そして、僕のコンプレックスを捨てさってくれて、自分と自分のコンプレックスに対峙してくれた彼に感謝した。
そして、僕は自分と他人を次第に信じられるようになってきた。
僕は自信を持つことができたのだ。
その翌年僕は駅のロータリーから一歩出て大阪行きの電車の切符を買うことになったのだった。
ノンフィクションフィクションの分類に入ると思います。要望があれば続編も出します。