第一歌 始まりの7日間
日常の世界
小さい頃、よく見た夢。
青と白の世界。眩しくて穏やかで、でもどこか哀しい、怖い。そんな夢。
母の自転車の後方に乗り、いつもの場所に行く。
いつものベンチ…
母はいつもそこに座って、遊んでいる俺を見ているだけ。
俺は危険な遊びをしていた。手すりの先は絶壁で、下には小さな砂浜と海が広がっている。
手すりに掴まりながら向こう側へ身を乗り出し、落ちるスリルを味わっていた。
失敗することなんて一度もなかった。
いや、それは嘘。一度だけその手を離した。
どうなってしまうのか。
そんな純粋な好奇心。
不安や恐怖など一切はない。
死んでしまうかもしれないなどとは微塵も思わなかった。
どうにかなるだろうと。そんな希望的観測していた。
でも、何も起きない。身体は重力に引っ張られ海へ砂浜へと堕ちていった。
っ!!!
あまりの恐怖に目を覚ました。鼓動は乱れ、息が荒くなる。
寝てた…
疲れてたなぁ。
(それ以来、あの場所には行っていなかったのに。
なぜ今。
あの海には何がいた。
何かはわからない、怖い。
しかし、気になる。何が変わる気がする。
あの深く暗い海には何がある。
そんな気がするのだ…)
平成最後の夏。
7月1日ちょうど月が変わった今日は暦を理解しているかのようにセミが鳴き始めた。
「暑いな」
小さなホオズキの実が暑さに萎れている。
せっかく大学に入ったのになにもしていない。結局バラ色のキャンパスライフに夢見て頑張って勉強したわけであるが、高校の頃にぼっちだったような人間にはそんな素晴らしい学生生活など送れるわけがなかったのだ。
わかっていたことじゃないか。
そう。わかっていたこと…
ヌァァァァアアーー!!!!体を大きく伸ばしバタバタと暴れる。
…
しゅんとして急に部屋が静かになる。寂寞の空間はとにかく俺を空しくさせた。
こんなんでいいのかなぁ…
でも、何にもやる気おきねぇし…
大学に入った時のことをふと思い出す。
サークルの勧誘でどこもかしこも人がいっぱいで、胸がときめいた。これが大学というものなのか。それまでの学校とは全く異なるシステムに戸惑い、そしてワクワクした。
とにかく、興味のあるサークルは片っ端から入った。
多くの友達や先輩と知り合い、履修登録の仕方や楽な単位の取り方を教えてもらった。
何もかもが懐かしく感じる反面、時が非常に短くも感じ、刹那の思い出に浸った。
-「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」-
(ようこそ、新入生諸君。
自由を求めれば、必然的に苦難は避けることができない。
自由を愛し、知を愛す新入生諸君よ。
君たちは自由を求め一生苦しむのだ。
君たちはその一歩を踏み出したのだ。
希望を捨て、自由を求めよ。
幸いなるかな 試練に耐え得る者よ。)
俺は手を伸ばし自分の手をまじまじと見つめた。俺が手に入れたかったものって何だったんだろう…
この堕落し、腐りきった自分を卑下してしまう。
手を重力に任せ、振り下ろす。
ばたん。
ふと顔を横に逸らすとあるのは大量のゴミ袋の山。
私の部屋は形容するならば豚小屋である。元来掃除というものが苦手で、ありとあらゆる食べ物は腐敗し、ゴミが散乱し部屋の片隅に蓄積する豚小屋である。カッコよく言うなれば、私がいることにより部屋のエントロピーが増大する。
と、どこかの名物教授が言っていた話を思い出したりしてぼんやりとしていた。
さすがに捨てに行かないとやばいか…
さすがに、このままでは私まで腐敗し病気になりそうだと思った。
俺はよれよれのシャツを着てふらふらとゴミ捨て場に向かった。
よいしょっと。野良猫やカラスが荒らし、ゴミが散乱した汚らしいゴミ捨て場にたまったゴミ袋を放り込む。
突如、幽霊のようにぬるりと人影が現れた。
上の部屋に住んでいる女子大生の三浦さんだ。
「あ、どうも…」
同じ大学だが、彼女は一つ下の学年になる。学部も違うし、大学で話したこともないし、ご近所付き合いもするほうではないので、ほとんど喋ったことはない。
彼女も無口であまり喋らなそうな人だ。
なぜか彼女にまじまじと見つめられている…
「あ、あのなんかついてますか…?」
「いや、なんでもないです」
「あ、そうですか、じゃ…」
夏休みだからめんどくさくて髭も剃ってないし、不審な人に見えたのかな…
ちゃんと剃るか。しっかりしないとだめだよな。
よし。切り替えてけ俺。生まれ変わるんだ。
(あの人…なにか後ろに…)
きっと気のせいだわ。寝不足だったからかしら。家帰って寝よ。
部屋に着くと身体の力が一気に抜け、布団に転がり込む。
がぁー。掃除したらだいぶスッキリしたなぁ。まともな人間になった感味わえて気持ちがいい。
よし。この調子で頑張って明日はだらだらせずに大学に行こう。
と、言っても、やっぱりめんどくさい…
なんでだろうなぁ。初めはあんなにやる気に満ちていたのに…
結構勉強も頑張って割と成績も良かった。それなのに今では不登校気味で引きこもり。何やってんだろ俺。こんな人生の序章で蹉跌をきたすとは。
明日は学校に行くかぁ…
私はいつの間にか眠りについていた。
…
ブァッ!!布団を翻し、飛び起きる。
やっちまった…寝坊だ… デジタル時計には7月2日の2時10分と映し出されている。
あぁ、やっちまったなぁ。まぁ、面倒だし今日はいいや。必修じゃないし、卒業単位はしっかりと取れている。
身体だるいし、今から行っても30分しか講義が聞けない。ならば出るだけ無駄だ。今日は家の中でゴロゴロして明日こそ大学に行けるように備えたほうが得策だろう。
うん、そうに違いあるまい。
…
ずっとひとりで何をするでもなく部屋の中にこもっていた木漏れ日が差し込む部屋の中でただずっと寝転がっている。
ただ、ぼーっと窓の外を眺めた。
こんな暑い中必死に働いている人がいる。
彼らが生み出した価値は彼らには還元されず、誰の手の中に納まるのだ。
しかし、何も生み出さずだらだらしているだけの怠惰で堕落した俺よりよっぽど尊い人たちである。
俺はなぜ生きているんだろう。
気が付くともう空は紅に染まり、赤赤とした日差しが私の目に飛び込んでくる。
この焦燥感。
これは一体何なんだ。
多くのことを頭の中でぐるぐると考えている思考がとどまることなく回り続ける。
将来の不安。凋落していく日本。世界の仕組み。人類の行く末。自分とは。存在意義とは。意識とは…思考が迸り、暴走していく。
頭がごちゃごちゃしてどうもできぬ。
砂嵐が頭の中で鳴り響いているようだ。
脳が熱で壊れてしまったのかもしれない。
暗くてうるさくて。頭が熱くて破裂しそうなのである。
あああああ!!!もう、どうにかしてるな。パンセダンでも飲むか。
興奮して全く落ち着かん。
その夜はどうも眠れなかった。
部屋でずっと寝ていたのだから当たり前なのだが、どうもこれまでの寝つきの悪さとは違う。
何と言ったらいいか。なにか、自分に重大なことが降りかかってくるような気がしてならないのだ。
不吉な予感とでも言うのであろうか。
そして、全く眠れぬまま夜は明けた。
7月3日
ああぁ、頭が痛い。全然眠れなかったな。きついわぁ。
ヨタヨタと自転車に身を乗せ、駅まで向かった。
毎日乗るこの満員電車。いつ乗っても辛い。なかなか慣れるものではないな。
徐にポケットからスマホを取り出し、ニュースを見る。最近は良いニュースというのをほぼ見たことがない。政治も腐敗し、国会では常に茶番が繰り広げられているようだ。この国は平和だ。それだけで、俺は十分だ。そう、十分…
ゴギィイ!!ゴタン!
急停車した電車。あたりがざわつく。
-「前方の踏切に関してまして、障害物を検知致しましたので、急停車いたしました。
電車遅れまして誠に申し訳ございません。列車が動くまで今しばらくお待ちください。
先ほどの急停車でお怪我をされたお客様は車掌かかりつけのものにお申し出ください。」-
(やばいな、講義に間に合わない。まぁ、しょうがない、英単語で覚えとくか)
しかし、狭い。これでは何もできんな。毎日こんな奴隷船のような満員電車に乗ることになるとは、社会人になるのが億劫で仕方がない。
はぁ、俺の人生こんなんでいいのかなぁ。社会人になったら消化試合みたいなもんだよな。
それが世間一般で言う普通なんだけど、なんだかつまらないなぁ。
思えば、自分は特別な存在だと疑わなかったが、とんだ勘違い野郎だ。
何の才能もなく、勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもなかった。
少し努力すればある程度のことはできた。それでも俺には何かで一番になれるものはなかった。
やっぱ凡人だ。それを理解しているのに、受け入れられずにいる。
もう大学生だぞ。いつまで中二病が抜けないんだ俺は。
ああぁ。ほんとダメなやつだな俺は。
…
安全が確認されたので、列車動きます。ご注意ください。
「よかった、すぐ動き出した。走れば間に合うな」
何とか間に合った…講義に出るのも久しぶりだな。
木立の松の枝に吊るされた鐘が静かに時を告げていた。
「つまり、我々の自我というものは社会的なストレスによって形成されたもので、これは人類が狩猟から農耕へと移り変わる過程において、その社会性を……」
後ろの学生がそわそわとしている。
「おい、次空きコマか?パチやらね?」
「えー、金ねぇよ。また今度な」
そろそろ時間か……
「はい、今日はここまで。
次回、レポート提出してもらいます。忘れないように。忘れるとどんな理由があれ、単位出せませんからね」
講義が終わった。
大学四年生にもなると講義も少なくなり、小学生の頃よりも早く家に帰ることができるようになる。意気揚々と帰っていたそんな大学の帰り道、何か懐かしい感じがしたのだ。
子供の頃によく行ったプールにふと行きたくなった。
衝動的に自転車をプールの方向に向かわせていた。
懐かしい。何もかもが懐かしかった。あの道もこの道も。でも、あの頃と何か違う、道も建物も小さくなっていた。それに、プールの横には何か大きな建物が建造されている最中だった。
プールに着くと、兄や友達と遊んだ記憶が蘇る。
とにかく深く潜ってみたり、競争したり、水中で面白いポーズをキメてみたり、サウナや温泉に入って温まってみたり、とても楽しかった。
そして、帰りには必ずアイスを買って食べていた。
そのアイスが美味くてな。その頃から私はチョコミント味のアイスが好きだったんだ。
そんな思い出があったんだ。
しかし、結局プールに入ることはできなかった。思い出が壊れてしまうのが怖かった。
もう入ってはいけない気がしたんだ。
きっと、子供たちが遊んでいる。
それを邪魔しちゃいけない。
夕暮れに自分の影と追いかけっこをするように自転車を必死で漕いでいたのを覚えている。
みんなと逸れないように。
全て変わる。
もう10年も経つのか。
長いようで短いようでよくわからない。
自分は変わっていないと思っていたし、これからも変わらないと思っていた。
でも、それは違う。
人は変わって行く。
人だけじゃない、物も社会も移ろい行く。
1つの場所に常にとどまる人などいないのだ。
プールの中でも常にとどまることなど出来ない。
それと同じことなんだ。
漂い、流される。
子供たちは目標の場所まですごい速さで泳いで行く。
大人は何かに必死にしがみついている。
どうやって生きればいい?
息もできない、苦しい。
体は流され、漂う。
そんなプールの中でどうやって生きろというのか。
どうして、子どもの頃は楽しく思えたのだろうか?
目標を持つこと、楽しむことを忘れた大人にはあまりに酷な環境だ。
だから、プールには入らなかった。
7月4日
雨が降り続く。
どうやら、瀬戸内海を中心として西日本では連日の豪雨によって町が沈んでしまったようだ。
先月は大阪北部で大きな地震があったし、その後は連日の猛暑。
平成最後の年だというのに、災難続きだ。
雨だと外に出るのも億劫になる。
ゴミだけは捨てないとな……俺は生まれ変わるんだ。
「あ、こんにちわ」
こ、こんにちわ。
隣人の田中さんだ。たぶん、田中。というのも、この部屋幾人かでシェアしているらしく、いつも違う人が出入りしているのだ。
噂では自称作家の在日朝鮮人の朴さん。カルト信者の小早川さんがいるらしい。
実は朴さんとは仲がいい。彼は革マル派でうちの大学によく出没する。ヤバそうな人ではあるが、特に何か騒ぎ立てるようなことはしない。
校門前で垂れ幕を設置したり、看板を持って立っていることがしばしばある。
初めて彼と会った時は大学1年の時か。
初めは通名で名を示していたので、外国人だとは思わなかった。
通名は「木下真」。彼は断固として、この名前で呼ぶように強制した。
彼は朝鮮学校を卒業し、IT系の職業に就いたらしい。
その関係もあって、ITには詳しく、彼にプログラミングやウェブについて学ばせてもらったことがある。
幾度か飲みに誘われることもあったか。
彼の話は面白い。好きな人のことや武勇伝を語ってくれた。
しかし、彼の隣にいる人はいつも訳の分からないことを言い、尋常ならざる雰囲気を出していた。
おそらく、あれがカルト信者の小早川さんだろう。
何やら怪しそうなこともしているし、邪悪な印象が強い。
あの如何にも陰険、邪曲な顔見ると恐怖を覚え委縮してしまった。とにかく早く帰りたいという思いが強くなったのを覚えている。
今は何やら怪しそうなこともしているし、最近は彼らに近づくことはしなくなった。俺の本能が危険を察知している。
大家さんはかなりの歳で彼らに対抗できないので、仕方なく部屋を貸しているという状況だ。
そんなこともあり、隣の俺の部屋も家賃がかなり安くなっている。
特に何事もなければそれでよい。どうせ大学生のうちしか住まいない部屋だからな。
にしても、最近彼らの様子がおかしい。
どうも機嫌がいい。身なりも以前はボロボロの粗悪な服を着ていたが、今では立派な服を着ている。
憶測だが、何かしら悪いことをしているのだろう。
触らぬ神に祟りなし。
しかし…
最近どうも寝つきが悪い。寝れたとしても変な夢を見て、起きてしまう。
薄暗い森の中をただひたすらに進んでいく夢。
多くの人に後ろ指をさされ、罵倒される夢。
頭がおかしくなってしまったのか。病気かもしれない。焦燥感と不安感に苛まれている。
何かこう…とにかく辛い。ものすごい重圧を感じる。
将来の不安?希望のなさ?わからない。ただ漠然とした不安と底知れぬ虚無だけがそこにある。
7月5日
今日はとても暑かった。
駅から遠い場所にある本社で面接を受けて方が、あまりの暑さに参ってしまった。
帰りはまた満員電車。
もう暑くてヘトヘトで、駅を降りて少しホームで休んでいた。
隣に女の子が座ってきて、俺と同じく涼んでいた。
黄色い帽子に制服姿でランドセルを担いでいたので、私立の小学校に通っているのだろうということはわかった。
まだ小さいのにこんな満員電車に揺られて大変だなと思った。私が小学生の頃は道草をしながら歩いて帰っていたなぁ。
女の子が水筒でお茶を飲むのを見て、急に喉が渇き、私も負けじと持っていた温いキレートレモンを飲み干した。とても不味かった。
お互いに持っていた飲み物を飲んでなんとも言い難い微妙な雰囲気に包まれた。
なぜかよくわからないが、気まずくなってしまったので、改札へと階段を登って行った。
講義があったので、学校へ向かい1時間だけ受けて帰る虚しさを抱えながら帰路へついた。
その途中で公務員志望の友人に偶然出会い、色々話して帰っていたが、彼ともあと数ヶ月で合わなくなってしまうんだなと感じた。
駅に着き、電車に乗ると続々とおじいさんやおばあさんが乗ってきた。
すごく元気だ。
70代ぐらいだろうか。
とても楽しそうに談笑していた。
電車内はスマホをいじり死んだ目の若者とすごく元気で誰とでも気さくに話しかける高齢者が対比的に映し出されていた。
なんだか、老齢者の方が人間らしいな。そう感じた。
帰りの駅へと近づき、立ち上がる。その高齢者たちもどうやら同じ駅で降りるようだ。
すると一人のおじいさんに話しかけられた。
「まだ遠くですかね?」
いや、この駅で降りますよ。
「そうですか、何をされているんですか?」
今大学生で、来年から社会人になります。
無事に就活も終わりまして(内定はあるが、実はまだ選考中ではある)、仕事があって良かったです。
「学生さんかね。これから素晴らしい人生があるからね。それじゃあ。」
あぁ、ありがとうございますぅ。
久しぶりに友人や家族以外と話した気がして少し心が温かくなった。
しかし、私に素晴らしい人生はあるのだろうか。
あのおじいさんはとても楽しそうだった。
ただ、会話の中ではもっと色々なところへ行ってみたいという感情があったようだ。
もう一人のおじいさんが旅行へ行くのを羨ましそうにしていた。
素晴らしい人生か。来年には社会人だ。きっと辛いだろうな。
私はなぜか社会人になることはとても辛く、人生が終わると考えていた。
本当かもしれないし、嘘かもしれないが、そう思い込んでいた。
ネットには仕事辛い、辞めたい、働きたくないという言葉で埋め尽くされている。
怖くて怖くて仕方がなかった。
それに、現在の日本の状況が頭の中をぐるぐるしているのだ。少子高齢化、人口減少、増税、地震…
私はあのおじいさんの人生を考えた。
歳は70代ぐらいだろう。
私と同じ歳の頃は50年も前ということになる。
私の父の話によると50年前は本当に今当たり前にあるものは何もなくて、みんな農業を営んでいた。
車もない、テレビもない、電話もない。
あるのは田んぼと牛。
私の父が幼い頃は我が家でも牛を飼っていたそうだ。
元から農家ではあったが、一般家庭が当たり前に牛を飼っているとは今では想像もつかない。
そんな時代にそのおじいさんは20代を過ごしたのだ。
そんな時代から現代。きっと天国のように見えるのかもしれない。みんなが小型の高才能コンピューターを持ち歩き、キツイ重労働から解放され、生活はより便利に豊かになった。
今の社会が素晴らしく見えるのも無理はない。
テクノロジーは指数関数的に発展しているので、私があのおじいさんと同じ年齢になる頃にはもっと世界は変わっているはずだ。
人類のあり方自体が変わっているかもしれない。
その時になぜかうるっときた。いや、ホロホロと泣いたかもしれない。
なぜかわからないけど、涙が出た。
私は時間が過ぎ去るのが怖い、怖くて仕方がない。
あのおじいさんも20年後には生きてないかもしれない。
親も同じだ。
自分が知っている人がいなくなるのが嫌で仕方がない。受け入れられない。
年老いていくのもとても怖い。
私は自立することだけを考えていたが、誰かを養うことなど考えていなかったし、考えたくなかった。
時間は残酷にも刻一刻と過ぎ去っていく。
それを私は否定しようとした。
誰かを守らねばならなくなるのが怖い。
知っている人がいなくなるのが怖い。
だから、あの女の子から逃げた。
だから、おじいさんと話して泣いた。
矮小な魂が残酷な現実を受け入れられないのだ。
家に帰ると、どっと疲れたような気がした。
どうも、体が怠い。いつも基本的に怠いのだが、明らかにおかしい。尋常ではない倦怠感を感じる。また、頭痛も酷くズキズキと内部から刺されるような鋭い痛みを感じる。
物の大きさが異なって見える。
これは幻覚か?
不思議の国に来てしまったアリスの様だ。
ここはどこだ。
俺は、誰だ。
自分という存在の境界線がわからなくなる。自己が肥大し、空と、海と、一体化していく。
ただ、一か所眩い閃光が差し込んでいる。
何かが、変わる。そんな予感だけがあった。
年7月6日、平成初期に世間を騒がせたカルト宗教代表の死刑が執行された。
何やら隣の住人が暴れていて気味が悪い。
カルト信者の小早川さんなのだろうか。
少し、覗いてみるか…
部屋には生活感のある家具とパソコンが置かれている。そして見慣れるものがいくつか。
クロユリと短冊の付いた笹が置かれていた。
あ?笹?あぁ、そうか明日は七夕か。
あんな退廃した人生を送っている人たちが七夕なんてやるとは…
ふっ。
退廃してるのは俺の方か。こんな豚小屋で引きこもってんだからな。
理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商、人間性なき科学、献身なき信仰…
世界は猖獗を極めている。このやるせなさはどこから来るのだろう。
人も世も病んでいる。常に人々は血に飢えている。ネットの世界は自己承認欲求を満たすために争いがそこかしこで行われている。自分という存在を誇示するかのように他人にマウンティングを仕掛けている。
そんな退廃した世界。
あまりに不合理で、理不尽で、欺瞞に満ちた醜い世界だ。俺は酷く慨嘆した。
皆が賢くなれば世界はより先へ進める。
なぜ、そうならない。
世界はもっと良くなるはずだ。
そう、世界はもっと良くできる。
俺は…俺が。
1.日常の世界
物語の導入部分です。主人公の人となりがそこそこ理解できましたね。典型的なダメ大学生です。なんの力も持たず、ひたすらに怠惰で、にもかかわらず、壮大な思い上がりをしています。
正に、傲慢。