3.魔物【オズモ】
伝説やおとぎ話に登場するような異形の生き物が姿を現すようになったのは、ここ数年のことだ。
多くはこの国の北にうっそうと茂る山林の麓で見つかり、人間に対して臆病とは言えない、それどころか危険ですらありえる生き物たちだった。
じわじわと増えてきたその怪物の出現に対処するため、警備兵がこの辺境に設置されている――ということは、元兵士のオズモは充分了解している。
オズモが見つけたこの男たちは、その警備兵の一員であるそうだ。
「面目ない。本来、我々兵士が市民を守るべきだというのに……」
オズモと黒いマントの男は、倒れていた二人を背負って町の医者まで連れてきた。
一人はいまだ意識が戻らないが、もう一人は気つけ薬を飲んだらずいぶん楽になったようで、寝台に横になったまま、しゅんと眼を伏せる。
彼の話に寄ると、四人での平常通りの見回りの最中、突然一匹の大きな魔物が現れたという。
彼らには初めて見る種のいかにも凶悪な怪物で、思わずひるんでいるうちにあっさりと襲われ、彼は早々に気絶してしまったとのことだ。
「仕留められたのかどうか……。我々二人が残されていたということは、あとの二人は無事ではないかも」
歯がゆそうに拳を握りしめる兵士に、黒いマントの男がふむとうなずく。
「近くに人の気配はなかったが、獣の足跡が森に向かっていた。追っていったか連れ去られたか」
確かめなければならぬはずだ。
オズモは自分の鼓動を感じた。
その魔物が生きていれば、人間を狙ってこの町に侵入することも当然ありえるではないか。
不意打ちとはいえ、たった一匹で複数の戦士に重傷を負わせるような怪物なのだ。こんなのどかな町に現れれば、死人すら少なくて済むはずがない。
都合のいい推測などどうでもいい。早く魔物を追わなければ。
――否。
違う。それこそ都合のいい思い込みだ。
その一匹を退治したからと言って、それで安心してどうするのだ。
魔物は確実に今後も現れる。この町にも、例外ではない。
とどめるべきは、その根源ではないのか。
目に見える危険だけを片づけて、それで安全だと枕を高くしていてよいというのか。
「ふっふっふ」
オズモはふと我に返る。
いつもは、頭の中の考えに浸っていると、周りの音が聞こえなくなる。景色が見えなくなる。自分の体すら動かせなくなる。
しかし、その男の嬉しそうな笑い声は、オズモの意識を澄みわたらせた。
「乗りかかった船、食べかけのおかゆだ。……では」
男は月光のような金髪をひるがえす。オズモを横目に見ると、戸口をあごでしゃくった。
「行くとしよう。孝行したいときに、親はなし」
しばらく考えて、考えても仕方ないと結論を出した。
それにしても、妙な話し方をする男である。
* * *
ただただ、立ちつくしていた。
オズモにとっては最早うんざりするほど慣れっこの感覚である。
魔物の足跡を追って森に入ると、黒い影と相対峙し今にも襲われそうな少女の姿を発見した。
一瞬、体が動かなくなる。これもいつものこと。
オズモがそうして逡巡する間に、金髪の戦士が疾風迅雷と怪物に躍りかかった。
「死、とは――」
剣を振るいながら、彼は唐突に話し始めた。
「まるで人智を超えたものだ。人は死ではない、死んだら人でないのだから当然だ。生きている間、人の頭の中に流れる時間は現実よりもずっと遅い」
唖然と、その姿を眺めるしかなかった。
「しかし死の際はどうか? お前さんが頭の中でごちゃごちゃ考えるのが現実の時間ではほんの刹那だろうが、現実に死が人に襲いかかるのはそれよりもっと速い、涅槃寂静だ」
魔物の金属的な断末魔の中、戦士は華麗な身振りで剣の露を払い、よく通る声で続ける。
「死とはまったく計れたものじゃあない。唐辛子のように辛いか、あるいは桃のように甘いかもしれん」
抑揚たっぷりにそう言い切った彼は、金髪を揺らしてちらりとこちらに目をやった。
彼と目が合うと同時に、立ち竦んでいた黒髪の少女の視線にもぶつかる。
白い顔のどこかはかなげな少女だ。
おそらくオズモは石のように微動だにしなかったろう、彼女は息を吐いて戦士に再び目を向けた。
彼はしげしげと、魔物の血がついた自分の剣を眺めている。
「ありがとうございました」
少女は二、三歩近づいてくると、優雅に頭を下げた。
「わたし、怖くて足がすくんでしまって……」
「ほーう」
彼は意外そうに眉がしらを上げて、少女の顔を覗く。
「怖くて動けなかったのか。俺はてっきり」
それだけ言って、にや、といたずらっぽく笑った。
さて、戦士と少女の対話の光景を前に、自分はまるで外界にシャットアウトされ、立ち竦んでいる。
と、彼女が不意にこちらに歩み寄ってきた。
対峙してみると、少女という形容のなんとなく似合わない、落ち着いた雰囲気をまとっている。
彼女はオズモの正面に立ち緑色の大きな瞳で見上げてくると、花がこぼれるように微笑んだ。
「あなたも、魔物を退治しにいらしたんでしょ? この町のかた?」
鈴を転がす声でそう言う。語尾を上げる言い方は、オズモの返事を期待しているのだ。
しかし――質問を一度に二つ繰り出されると、困ってしまう。
こちらも二つ返せばいいのか、とも思うが、きっと前者の問いは答えてもらおうとする類のものではなく、ただの確認だろう。
とはいえ後者も、社交辞令的な質問かもしれない。
そもそもさっきからずーっと固まっているオズモのことが不審なのかも。
とにかく、何か返事をする方がよい。
――ああ。
オズモは、どうにもやりきれない気分になる。
さっき、反省したはずじゃあないのか。あの戦士にも今しがた遠回しに叱咤されたではないか。自分という人間はまるで喉元過ぎれば熱さ忘れる、反省のし甲斐のないやつだ。
「こいつは俺の連れだよ」
男の声が耳に突き刺さり、はっと我に返る。いつのまにか、彼はオズモと少女のそばにやって来ていた。
少し引っかかる言い回しだ。怪物の痕跡を追って連れだってきたのは確かだが。
あら、と返す少女に、彼は手のひらを仰向けにして指を差した。
「なんならお嬢さんも歓迎しよう。どうやら目的が重なりそうだ」
この男には何か目的があるようだ。
それもそうだ。理由もなしにこんな辺境の町に来る者もいまい。
彼女はしばらく無表情に沈黙していたが、やがて頬にかかる指で払って、笑った。
さきほどの可憐な笑い方とは違う、どこか冷たい知的な笑顔だった。
「わたしも、歓迎させてもらうわ」
オズモは、ただそれを聞いていた。