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イバンのばか  作者: 夜間三
第十章 魔女と狼
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4.魔女の記憶【ビオラ】

 魔女グラグニア。ビオラの育ての親で、魔法の指南をしてくれた老女。

 ビオラが拾われたそのときから老女の姿をしていた。

 ライラック色の長い髪に、透き通るような白い肌。背の高い体を猫背に丸めた立ち姿。分厚い瞼が両目の上に垂れ下がり、のぞき込もうとしなければその奥の金色の瞳は見えなかった。


 忘れたことはない母の姿。


 死んだはずの彼女が、木々の向こうに立ってビオラを見つめている。


 ビオラはすぐに我に返った。

 これは幻覚。記憶を現実に表出させられている。

 魔王の城にいる間に記憶を読み取られたのは分かっている。

 なるほど、こうして精神に揺さぶりをかけるために使うということだ。


「無駄よ」


 どこかにいるであろう、悪夢を見せる能力を持つ優生種――おそらく、火山に行く前クライスが遭遇した子供の形の魔物だ――に向かって呼びかける。


「手口は分かってる。わたしはこんなことで戸惑うような少女じゃない」


 魔女の姿は消えない。

 どこからか獣の吠える声が響いてきた。

 森の中、狼の群が迫ってくる。ビオラはまた思い出していた。


 見れば、ルキやクライスたちも当惑して辺りを見回している。

 皆にも感じられるようだ。

 現実ではない――とはいえ、感覚は本物。


 草を踏みしめる獣の足音に従って、木々の間から姿を現したのはやはり狼――しかしその姿はビオラの体ほどに巨大であった。血に飢えた鋭い牙を剥き出し、黄色く濁った眼光が獲物を求めて爛々と輝いている。


 武器を取ったオズモがビオラをかばって前に立つ。


 だが、狼はビオラの背後に出現した。背中からのしかかられ、耐えきれず倒れ込む。肩口に太い牙がめり込み、肌を破って肉をえぐられるのを感じる。

 振り向いたオズモはきっと狼狽していることだろう。

 仕方の無いことなのに。誰にも救えるはずはない。


 これはビオラの記憶なのだから。


 だから分かっている。このまま食い殺されることはない。

 嵐が訪れ、雷が落ちて、狼たちは獲物を仕留めきることなく逃げてゆく。

 今は痛みに耐えていればいい。


 子供のビオラを、町の人々が囲んでいる。

 細く小柄な少女に向かって、恐怖と嫌悪に充ち満ちた視線を突き刺している。


 故郷では魔女の伝説が信じられていた。

 邪悪な魔力を持った魔女が人間をたぶらかし、生命を吸い取って滅ぼしてしまうと。

 ビオラは賢い子供だった。知能が高く、一度見聞きしたことは忘れない。自然や周囲の人々の動向を予測する洞察力も備えていた。


 賢すぎる子供こそ、魔女の芽にほかならなかった。

 ビオラの両親が獣に食い殺されて命を落とした――それこそ、魔女が邪悪な力を発揮した証拠だった。


 小さな少女にとって、狼の群生する森に追放されることは死罪も同然だった。


 視界が歪む。天地が逆さまになる。五感が消失し、ただ体内に焼き付く苦痛だけが感覚のすべてになる。

 出血のせいで意識が混濁しているだけ。


 気がつけば背中から重みが消えている。

 ビオラは薄汚れた石の床に手をついて体を起こす。舗装もされていない剥き出しの石に、ひ弱な手の平の皮膚が削れて赤い染みが増える。

 重厚な鉄の首輪のせいで動くこともままならず、寝転がっていたところでまともに体を休めることもできない。

 自ら体を起こしきる前に、首につながれた鎖が乱暴に引かれて体が浮き上がる。

 ビオラはずだ袋のように引きずられ、投げ出される。首輪が薄い皮膚を擦り、もはや慣れきった痛みに弱々しい呻き声を漏らす。


 魔女には容赦なく拷問を加えなければならない。

 肉体に苦痛を埋め込むことで、邪悪な精霊を追い出すためだ。


 くだらない巷説。魔女の力は邪悪な精霊のものなどではないのに。


 木の水槽に上半身を突っ込まれる。重い首輪に引きずられて頭が沈み、空気を求めても顔を上げることはかなわない。

 魔女ならば邪悪な力を使って助かるはず。

 邪悪な力が抜けていれば、このまま死ぬ。

 死ぬことが清廉な人間であることを証明する。


 ビオラは魔女だった。

 本来であれば、媒介である杖や魔法書がなければ自然に干渉することはできない。

 しかし生命の危機にさらされる瞬間は、ビオラ自身にも制御のできない力を生むことがあった。

 

 顔を押しつけられた水面の高さが徐々に下がっていく。水槽の底が割れ、水が漏れ出していた。

 解放された口で必死に空気を吸い込むビオラの髪を、粗野な男の手がつかんで引き起こす。


 死ななかった。

 それはすなわち、拷問が続くということ。


 生きているということ。


 そう――こんな記憶、何でもない。

 ビオラにとって記憶など恐怖の対象ではなかった。

 なぜなら回想することそのものが、生きていることの証だから。


 傷の痛みが、皮膚の焼ける熱に変わっていく。

 太い木の棒に直立の姿勢で縛り付けられている。荒縄が首を、胸を、腹を、脚をきつく締め付け、呼吸もままならぬ中、足元から火柱の先端が肉をあぶる。黒い煙が鼻と喉を塞ぎ、喘いでも喘いでも体内に入り込んでくる。


 苦痛と絶望。死の恐怖。

 それを繰り返し感じることは、ビオラの生への執着を強くするだけだ。


 ビオラは独り森の中に立っていた。

 育ての母と暮らした森。

 魔女として成長し、母を残して旅立ったビオラは、その死を見届けるために戻ってきた。

 死を――ではない。

 彼女が死んでいないのではないかという期待を証明するために戻ってきた。


 期待は裏切られただけだった。


 彼女は死んでいた。

 強大な力を持ち、魔物と人間の世界を隔てる結界を支え続けてきた魔女でさえ、死に抗うことはできなかった。

 そうしてそれをビオラに知らしめるために、死体を残した。


 彼女の意識は一体どこにいったのだろう。

 どこにもいってなどいない。消え失せたのだ。

 ビオラも死ねば、何もかもなくなるのだ。


「気が済んだ?」


 ビオラは静かに言った。


 目の前に小さな子供が立っている。

 薄桃色の肌に、くるくると跳ねた栗色の髪。

 やはり、火山近くの崖の上で見た夢魔だ。


 子供はむっつりと唇を尖らせて、ビオラの足元に唾を吐く。


「つまんねー女」


「悪いけど、わたしは自分の記憶を見て取り乱すような女じゃないの。悪夢を見せて精神を弱らせれば、あなたの仲間がかけた暗示に従うと思ったのでしょうけど、あいにくね」


「あんた、バカじゃねーの! あんな地獄みたいな人生送ってきたら普通死んだ方がマシだって思うぜ。これ以上生きてたってあんたが魔女だってことは変わらないんだ。どうせ痛めつけられて殺されるだけだよ!」


 ふふ、とビオラは笑う。

 彼はきっと若いのだ。人間のことを分かっていない。


 人間の精神を最も追い詰めることができるのは、他ならぬ自分自身だ。

 自分が何を恐れていて、何を望んでいるかを無意識にでも理解しているからこそ、最も絶望的な状況を想像できる。


 記憶の悪夢を見せるのはせっかく有効な手段なのに。

 あの女のように示唆だけを与え、後は本人の想像力に働かせるのも良い。

 直接的な言葉で訴えかけようとするなんて、浅はかでかわいらしいだけだ。


「お家に帰りなさい、ぼうや。お姉様にお仕置きされるのでしょうけど、わたしには関係ないことだわ」


「……いい気になってろよ、あんたの記憶は全部――」


「皆にも伝わってるんでしょ。別にたいしたことじゃない。わたしは自分が悪いことしてきたなんて思ってないもの」


 子供は悔しそうに顔をしかめながらも、大人しくさっさと姿を消した。


 紫の煙が辺りを包み、それが晴れると元通り、朝食の焚き火を囲んだ森の中に戻っていた。

 もちろんイバンたちもそこにいた。

 目を閉じているイバンを除き、皆が呆然として遠くを見つめていた。

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