3.草原の魔物たち【クライス】
何がしかの気配を感じて、クライスは何とはなしに振り向いた。
べちゃっ
「わあっ」
目のあたりに、何かどろどろしたものが飛んできた。
泥でも投げられたのかと思い、とっさに顔をぬぐおうとする。
が、取れない。
取れるどころか、それはクライスの顔の上半分にのしかかってくる。
「な、な!?」
絡みついたそれの重さに傾こうとする頭をぶんぶんと振るが、やはり取れない。
目から額を覆われて前が見えず、よろよろと足を踏んでは頭を振る。
そこに手をやると、柔らかく冷たい感触。そしてぐねぐねと波打っている。
「ええっ」
状況が全く把握できない。
引きはがそうと手をかけようとするが、それはひっしと頭にしがみついてくる。
と、嬉しそうな男の声が耳をかすめた。
イバンの声だ。
歌っている。
「ちょ! た、助けてっ」
混乱しながらも、とにかく声の方に足を踏み出すと――
どごっ
おそらく、言葉で表せばそんな音がしただろう。
目の奥で火花が散って、自分が上げたうめき声は耳に入ってこなかった。
額にじわりと熱を感じはじめるとともに、そこに覆いかぶさっていた柔らかなそれがずるりと流れ落ちるのを感じた。
目をしばたたきながら前方を確認すると、僧侶が右手に構えた杖をひゅんと風を切って振り落ろす姿があった。
水が飛び散るような音と、きゅう、とネズミの悲鳴のような音とが同時に聞こえた。
もやのかかったような視界の中でぽかんと彼女の顔を眺めていると、例によってぎろりと睨まれた。
「襲われるのは勝手だけど、あたしまで巻き込まないで」
「……」
ルキの声は聞こえたが意味までは理解できない。
とにかくも、額に感じる熱がじんじんとした痛みに変わってきたのにやっと気が付いた。
「……痛たた!」
ようやく頭がはっきりし、一体何が起きたのかを考え出す。
とりあえず、この眉間の痛みは――
「本気で殴ることねーだろ、ルキ!」
「あんなの顔にくっつけて寄ってくるからでしょ」
あんなの、と彼女があごをしゃくった草の上には、ぼろぼろと風化した灰のようなモノが散らばっている。
先ほど顔に絡みついていたときも、ルキが突き落としたときも、たしかどろりと柔らかいものだったはずだ。
クライスは額をさすりながら、首を傾げる。
「……あれ、なんだったの?」
「考えるな! 感じろッ!」
顔を向けると、イバンが笑っていた。
いや、草原に来てからというものほとんど彼は笑いっぱなしである。
「……えーと、ゆるめの水ようかん。合成着色料を……」
「いわゆるスライムだな」
素直に答えたクライスの返事を無視した、その飄々とした声を聞いて、もう少し前の状況を思い出した。
「あっ、あんた、オレがパニックしてんのに歌ったな! ちゃんと聞いてたぞっ」
「それに関しては弁解の余地はないな。なにしろお前さんが楽しそうに踊るもんだから――」
風化したそれを覗きこむ姿勢のまま、彼はクライスの不満顔を見上げてくる。
「てっきり、はしゃいでるのかと」
「踊ってねーんだよっ」
「ちょっと!」
鞭で打つように僧女がクライスの言葉を遮る。
「まさかあたしに戦わせるつもり? 僧侶なのよ」
たった今、杖での見事な攻撃を披露しておきながらの、このセリフ。
しかしふと気がつけば、ルキの後ろに奇妙なモノの影がある。青い、柔らかそうな丸い物体がふるえている。
「あれか!」
自分の顔にさきほど飛びかかってきたのと、同じモノだろう。
「あの大きさなら、首がぽっきり折れていたところだな。幸運クライスだ」
不吉なことを言うイバンのことはもう無視して、周りを見回す。
柔らかな青い物体の他にも、青白く燃える火の玉のようなモノたち。
クライスたちと、やや離れたところにいるオズモとビオラを、囲むように迫ってきている。
「……ふーん、いわゆるスライムか」
あれらに矢が効くのだろうかと疑問に思いながらも、弓を構える。
そんなクライスに大きくうなずいて見せると、イバンも腰に下げた剣を引き抜いた。
そのとき。
「飛んで火に入る夏の虫たあ、このことだな!」
遠くから、太い声が聞こえた。
きょろきょろと見回し、声の主を探す。
「ずいぶん知的な表現をするじゃあないか!」
剣を片手に、イバンがどこへとはなしに返事をした。
「ほーう、知的なのは人間様の専売特許だってのか!」
「いーや、現金掛け値なしだ!」
彼が左手に顔を向けてさらに大声をかけた、そちらをクライスも見やるが、
「おい、こっちだよ! こっち!」
いらついたような声は逆方向から聞こえた。
イバンと一緒に振り向くと、遠くの方に、黒い人影がある。じっと目を凝らすと、どうやら人ではない。人のような姿ではあるが濃い褐色の肌に、どうやら顔には大きな牙が生えている。
「俺様はなあ、スライムどもみてえなクズとは違えんだよ! おめえら人間ともな!」
「そうか! しかし、知性があるのなら他人を種族でひとまとめにで呼ぶのは礼儀に反するってもんだ! 俺はイバン、よろしくね!」
「変な奴だな」
遠くで褐色の魔物が呟くのがかろうじて聞こえた。
「だったらてめえも俺をオークだなんて呼ぶんじゃねえぞ! 俺の名はアレスだ!」
「立派な名じゃないか!」
「いったい何をしてるの!」
ルキが割って入る。
「しゃべりたいんなら隣に並んで腰かけたらどうかしら! のらくらしてる状況じゃないのよ!」
どうも彼女は遠慮とは無縁の身らしい。
クライスは魔物よりも苛立ったルキに対して怯えたくなったが、アレスと名乗った魔物はひるまずに怒号を返してきた。
「いい度胸だな、ねえちゃん! 俺ぁ知的だが気は短えんだぜ! おう、さっさとそいつらやっちまえ!」
親分の一喝に、クライスらを囲んだ魔物たちが、うようよと活動的に迫り始める。
「我々は足を踏み入れた、というわけだ」
ぐるりと周囲を見渡して低くそう呟くと、戦士は黒いマントを翻した。
「イバン、行っきまーす!」
イバンは駆けながら、敵を薙いだ。
「えいっ!」
イバンは身を翻し、敵を切り上げた。
「ファイヤー!」
イバンは跳びかかり、敵を突いた。
「アイスストーム!」
みるみるうちに彼の姿は遠ざかり、後には累々と倒れた魔物が残る。
かけ声の意味はまったく不明だが、とにかく彼は強いらしいということを理解する。
が、一体この男はどこまで真面目にやっているんだろう、とクライスはいつになく常識的な気分であった。