213 魔神獣:毒空木―5
割れた毒空木の上で、四つん這いになっている幼女の姿。
銀髪の幼女が切り株に触れている、という平和な光景であれば、どれほどよいだろうか。
今現在、ミリミリに『ものまね』している俺は毒空木に飲み込まれようとしていた。
毒空木が元の形に戻ろうと、紫の液体を文字通り噴出させている。
紫の液体は数秒すると厚く硬い幹へと変化していた。
外側から辺材、心材とできていき、髄に居座る自分の足元ではドクドクと液体を溢れている。
液体に浸かった手足には、ピリッと刺激が走った。
「毒液だな……効かない機械の体で良かったぜ」
〈何言っているんですかー。状態異常にはならなくても、ダメージは少しずつ食らってますよー〉
と、呑気な女声が脳内に響く。
じゃあ、普通にヤバい状況じゃねぇか。
助手に反論しようとした矢先、不意に右手を引っ張られた。
すぐさま、左手と両足で踏ん張る。
「こいつ、俺を吸収しようとしてるのか!?」
〈その通りですよー。劇毒の池で徐々に弱らせて、ミミゴンを栄養として摂取しようとー……〉
「のほほんと語ってないで、はやくしてくれー!」
(ミミゴン! 毒を少しでも防ぐためにも、内側から魔力を放出して防御壁をつくれ!)
「そんなことができるのか!」
エルドラのワンポイントアドバイスを即実践しなければならない。
魔法を放つときの感覚を念頭に置き、体の内側から僅かな魔力を発する。
じわじわと体を覆うようにして、魔力の層をつくった。
魔力層は毒を弾き、手足の痺れが取れていく。
これで一段落ついた……というわけにもいかなかった。
劇毒は防御壁を削ってくる。
削られたら、魔力を発して壁を維持する、ということを繰り返すため、生存時間に多少の余裕ができたくらいだ。
しかも、防御壁を維持するのに神経を使う。
玉の汗が頭からポタポタと落ちていった。
「くっ、しんどく……なってきた。あとで、グレアリングにたっぷりと報酬を請求しないとな……」
毒空木の再生速度は、かなり速い。
あっという間に、俺は毒空木の内部に閉じ込められた。
手足を動かす隙間すらない、完全な閉鎖空間だ。
俺はただ、ひたすらに魔力を微量に放出して劇毒の侵入を防いでいた。
外からは七生報国の戦う音が響いてくる。
内部の俺に攻撃させないよう、懸命に守る彼らの勇士が想像できる。
その想像は長く続かなかった。
物理的にも精神的にも、じっくりと追い込まれる空間でまともな思考が働くはずがない。
徐々に気を失いかけていた。
心地よい眠気に誘われ、ついに目を閉じようとしたその時。
『この俺が王になるために勉強していると思ったのか! 父さんは何も分かっていない!』
唐突に襲ってきた叫び声で、意識がハッキリとする。
声の正体は……トリウムか。
なぜ、トリウムの声が聞こえてきたんだ。
〈トリウムのデータに侵入していますからねー。彼の記憶が、ミミゴンに流れ込んできたのでしょー〉
記憶が流れ込んでくる、だと。
次の言葉を考えるより先に、目の前の光景が瞬時に変わった。
今度は声だけでなく、視界の記憶も流入してきたようだった。
ここはグレアリング城の一室か。
『なぜだ、トリウム。お前には、王の資質がある。グレアリングを継ぐに相応しいのは、私の息子だけだ……』
背後から、リーブの悲しげな声が投げかけられる。
それに反応した俺の体は咄嗟に振り返って、勝手に口が動く。
どうやら、俺は今、トリウムとなっているようだ。
彼の心底に宿す熱い気持ちが、どんどんと湧き上がってくる。
『勉強も稽古も全て、外へ飛び出すためだ! 王になるためじゃない! 俺は冒険譚の主人公のように世界を旅するんだ。閉鎖的な王国に、もはや価値などない。俺のことは、ほっといてくれ!』
『トリウム!』
トリウムは、リーブを押しのけて部屋を出ていった。
胸中に抱く自由への憧れ。
その憧憬は本物のようだ。
窮屈な帝王学を受ける記憶が視界に映し出された。
アルテックによる剣の指導、学問の習得。
王になるための特別教育を施される様を見せられた。
だが意外にも、本人はそれほど苦痛だと思っていなかったようだ。
全ての学びは自由に繋がる。
そう信じ続けたからこそ、熱意を持って学んだようだった。
「うっ、トリウムの記憶が……」
唐突に戻される現実。
現実に引き戻されると同時に、強烈な頭痛が押し寄せてくる。
今、毒の海に溺れている。
かなり無理をしている状態だ。
劇毒は目元まで昇ってきた。
〈耐えてくださいー、ミミゴン! もう少しで、すこし……なのにー……〉
「助手……! 何か問題か!」
〈な、ん、で……データがー、逃げていく、の……〉
データが逃げていく?
〈トリウムの核となるデータ……これを上書きすればいいだけなのにー……〉
助手の焦りが口調に表れている。
手の届く範囲まできたというのに掴めない。
そんなもどかしい気持ちを自分のことのように感じる。
助手と俺は一心同体だ。
その二人が危機的状況に直面し、自身のことで限界になっている。
〈トリウムが、消えていく……。これ……もうー……だめ、かもー……〉
脳内に響く声が弱々しくなる。
かすかになっていく声は、もう……聴こえなくなった。
劇毒は、ついに空間全体を満たした。
「諦めるなー! 助手ー! 俺が、おれが……! 助ける!」
『トリウム王子! 戻られたのですね!』
『トリウム王子が戻られたぞ!』
グレアリング城へ戻ってきた俺に門番の兵士が寄ってくる。
一ヶ月ぶりに帰ってきた自分の家。
特に変わった点は見受けられない。
強いて言うのであれば、城内の雰囲気が寂しいところだ。
それもそのはず。
グレアリング・リーブは兵士を伴って、セルタス要塞へと進軍しているからだ。
今頃、デザイア帝国と戦火を交えているだろう。
「ははっ、勝てるわけがないだろ。いよいよ、この国もお終いだな」
見納めとばかりに、グレアリング城を見上げる。
俺の様子を不審に思った兵士が尋ねた。
「王子……?」
接近してきた兵士の首筋に素早く左手を突きつける。
「『スリープショット』」
物言わず、兵士が崩れ落ちる。
他の兵士が怪訝な顔をしている内に、次々と眠らせにいく。
「『スリープショット』『スリープショット』」
「お、王子!? あっ……」
『スリープショット』を撃たれ、ドサッと前のめりに倒れる。
この調子で、油断している兵士を次々に狙撃して眠らせた。
城内に進入し、迷うことなく玉座の間を目指す。
警備をしている兵士は出会い頭に眠らせて、奥へと歩いていく。
「ふぅ、ようやく玉座の間か」
重い扉を開けて、きらびやかな空間が視界いっぱいに広がる。
一ヶ月前、魔物に荒らされた部屋が元通りの豪華絢爛へと戻っていた。
最奥に並ぶ一つの玉座。
中央に敷かれた赤い絨毯を踏み鳴らすように進み、途中で歩みを止める。
「総裁! 玉座の間でございます」
「苦労をかけたな、トリウム」
何もない空間に響き渡る女の声。
トリウムの影が波打ち、そこから人影が飛び出る。
人影は徐々に色を取り戻し、やがて手足が揺れ動いた。
黒い装束の妖しげな女が顔を上げる。
「私の姿をあまり目撃させるわけにはいかない。トリウムが法則解放党に所属してくれて、よかったわ」
トリウムに総裁と呼ばれた女――乃異喪子は満足気に腕を伸ばしている。
「さぁ、トリウム。ついてきなさい」