196 ドラコーニブス・アルフェッカ―3
順調に回っていた歯車が一つ狂いだしたのは、アルフェッカが11歳になった頃。
その時期には、皇帝宮にアルファルドがいることが少なくなった。
理由は戦争の激化、とアルフェッカは考える。
実際、前線や兵站基地、威風都市エーレグランツによく赴いていた。
アルフェッカの耳にも帝国軍が苦戦しているという情報が入ってくる。
尊敬する父のためにも、自分は内政に尽力した。
幼い彼女に権力はあまり与えられていないが、できる限り寄与する。
いつかアルファルドに邂逅したときのために、実績を積んでおいた。
アルフェッカが皇帝宮にある図書室へと向かう道中、偶然アルファルドを目にした。
通路の向こうから、大柄の凛々しい皇帝が堂々たる歩みで近づいてくる。
かれこれ半年、自分の父と対話していない。
今、アルファルドは一人。
急いでいるという様子ではない。
話しかけるなら今が好機、とアルフェッカが声をかけた。
「お父様!」
一礼して、彼女は報告する。
これまでの成果で一番のものを。
褒められることを期待して、胸が騒いでいた。
床を踏みしめる音が、横で大きく響く。
「旧市街の抵抗運動を鎮静化しました」
報告した途端、体の芯から溶けそうなほど心地よかった。
やっと、報告ができた。
身体も心も宇宙を泳ぐように浮き上がった気分である。
だが、アルファルドはそんな娘の内情を無視して、横を通り過ぎていった。
冷風が吹き抜けるように去っていったのだ。
アルフェッカはただ唖然と佇んだ。
なぜ、お父様は一言も発してくれなかったのか。
急いでいる様子ではない、というのは私の主観だ。
この後に会議が控えているのかもしれない。
皇帝が走り回る様子は印象の良いものではない。
威厳を示すため、ゆっくりと荘厳に足を運んでいたのだ。
そう解釈して、また次の機会に報告しようと考えた。
次に出会ったのは三ヶ月後。
再び皇帝宮で遭遇し、アルフェッカは一目散にアルファルドのもとへと駆け寄った。
「お父様! ヌンキ議員の不正の証拠を掴みました。これで議会で歯向かう者が減ったも同ぜ……」
同然、と言い終わらない内に視界から消えていた。
お父様は皇帝。
私などに構う余裕などないのだ。
アルフェッカから離れるアルファルドの背中が小さくなっていく。
次に邂逅したときも報告を試みた。
「お父様、ヌンキ議員の不正を皮切りに、タラゼド議員の不正支出も判明しまし……」
首を下げ、報告するアルフェッカの横を静かに通り過ぎていく。
まだまだ褒められるのに値する功績ではないのだ。
そう捉えて、アルフェッカは邁進する。
議員の不正を続々と摘発し、時たま辞職した議員が復讐しにきたが返り討ちにした。
集団で袋叩きにされそうにもなったが、アルフェッカは難なく退けた。
これで、少しはお父様のお役に立てたはず。
二ヶ月後に、帝都の門で再会する。
従属する兵士と共に馬車で帰還したとこだった。
「お帰りなさいませ、お父様。反ドラコーニブス派の議員たちは……」
ところが、アルファルドは娘に目もくれず門をくぐっていった。
側近の兵士は呆然とした様相のアルフェッカを一瞥して同情したが、すぐに皇帝のあとを追う。
「お父様は……皇帝陛下はお忙しい。それに私はまだまだ褒賞に値することをしていない。もっと、もっと私に力があれば……振り向いてもらえるはず」
黒革手袋が裂けるのではないかと思うほど、拳を強く握りしめた。
もう一度、お父様に褒められたい。
厳格に徹するべきである身分だというのに、この願いは子どもっぽいだろう。
だけれども、私を褒めてほしい。
頭をなでてほしい、積み上げた功績を讃えてほしい。
私は認められたい。
日々日々、願望が膨れ上がっていく。
もはや、自分自身でも制御しきれぬほどに。
自分の部屋がある皇帝宮へと戻ると、ステラとアルティアが迎えに来てくれる。
そこで、ステラは長女の違和感に気づいた。
「アルフェッカ……」
「心配ありません、お母様。少し、私の部屋で休みます」
ステラの差し出した手を握ることなく、アルフェッカは隣の部屋へと入っていった。
最近、歩くことができたアルティアは姉の背中をじっと見つめている。
ドラコーニブス家が揺らいだ瞬間だった。
アルフェッカが12歳を迎える。
皇帝宮を歩いていると、会議室のある部屋から一人の竜人が出てきた。
最近、皇帝宮でよく見かける人物である。
一瞬、女性だと見間違えたのは黒色の長髪のせいだ。
糸のように細い目をしていて、やたらと陽気な雰囲気を醸している。
そのときはあまり気に留めなかったが、後にラオメイディアと呼ばれる竜人だった。
興味を引かれることはなかったが、直近を通っていった瞬間、血の臭いがした。
当時のアルフェッカは帝国軍の内幕に詳しいわけではなかったので、軍の将校かなにかだろうと推察する。
それはともかく、アルフェッカは会議室をちらっと横目で確かめた。
「――お父様」
爪先を右に90度向けて、中に進入する。
会議室にアルファルド以外、誰もいなかった。
アルファルドは円卓に両肘をついて、深く唸っている。
敬愛する父の横に立ち、アルフェッカは声を出した。
「皇帝陛下。以前、帝都近くを騒がせていた盗賊団を覚えていますか。その盗賊団を陰で操っていたのは、アクベンス議員です。彼は反ドラコーニブス派であり、裏でこの皇帝宮を……」
「そうか」
アルフェッカが報告している途中で、アルファルドが中断するように一言を発する。
それから、荘重な面持ちでアルフェッカを見つめた。
やっと、私の目を見てくれ……
いや、私を見ていない。
アルファルドの眼中に、アルフェッカはいなかった。
射抜くような視線から感じるのは、ただの邪魔者といった邪険の念だ。
それに気づいたアルフェッカの声量は次第に落ちていき、やがて口を閉ざした。
アルファルドは立ち上がって、さっさと部屋から退出していく。
何も考えられないほど、その場に立ち尽くした。
我を忘れたといった状態に陥ったアルフェッカは静かに、皇帝が座っていた椅子を眺めていた。
冷たい印象の青鉱石でできた椅子、背もたれと座面には赤い布が貼られている。
お父様は何を考え、何を求めているのか。
それを察することができれば、私はお父様の娘として、帝位継承権一位として相応しい行いができる。
目的を為すための権力、血気、才幹。
「ドラコーニブス家の血筋を引くものとして、認めてもらわなければならない。お父様から帝位に相応しいと認めてもらう。幸い、私は才に恵まれている。私の全てを、ドラコーニブス家に捧げよう」
「ステラ! しっかりしろ!」
アルファルドの悲痛な叫びが、ステラのいる部屋で反響する。
20歳のアルフェッカと、10歳になったアルティアは後ろで固唾を呑んで見守っていた。
ステラは病に冒され、ここ最近ずっとベッドで臥していた。
だが、今日になって容体が急変したのだ。
咳は止まることを知らず、呼吸すら困難になっていた。
六星騎士長のヴェニューサが調達した薬で一時的に静まったが、またいつ悪化するかは分からない。
死の気配がほのかに漂う。
静穏化しつつあった咳が再び、激しく噴き始めた。
居ても立っても居られなくなったアルファルドは、ステラの左手に両手を重ねて祈る。
定まらない瞳孔で、ステラはアルファルドを見据える。
「アルファルド、私なら、へい、き、よ……」
「無理をするな」
アルフェッカは母の様子に堪らなくなって、声を張り上げた。
「お母様、死なないで!」
ステラが頭を起こして、アルフェッカたちに笑顔を振りまいた。
口角を上げて笑うことすらも命がけに感じる。
アルティアはぐすぐすと嗚咽を押さえて泣いていた。
苦しむ母親を見るのは、心根の優しいアルティアにとって何よりも耐え難いものだ。
私にできることはないのだろうか。
お母様を救いたい。
自問自答を繰り返していると、スイセイがドワーフを伴って入ってきた。
スイセイが新都リライズから名医を連れてきたのだ。
カゼカミと名乗った医者は、アルファルドに急かされ、すぐさまステラを検診する。
「これは、学会の……?」
「何か知っているのか!」
アルファルドが希望にすがるため、大声で問う。
困惑しながらも一つ一つ整理するように、ゆっくりと落ち着いた声で語った。
アルフェッカはそれらの説明が耳に入るも重要ではないと判断し、半分ほど聞き流していた。
それよりも悔しいという気持ちが溢れてくる。
アルフェッカは自分を責める。
母を治療する力があれば、父にも認めてもらえるはずだ。
だが、そんな力など持っていないことは自覚していた。
スイセイとアルファルドは部屋を飛び出し、会議室へと向かった。
この部屋にいるのは医師と娘、女官長のシルマだけだ。
医師は鞄の中からデバイスを取り出し、指で操作している。
アルフェッカとアルティアは、おずおずとベッドの側に進み出る。
ステラは苦笑いをして、受け入れるように腕を広げた。
真っ先に、アルティアが身を投げ出す。
「お母様!」
「さいごに……わたしに顔を見せて、二人とも」
きょとんとした顔のアルティアと、弱気になっているアルフェッカを交互に見つめた。
二人の表情を目に焼き付けようと凝視する。
「あなたたちは、ドラコーニブス家を継ぐ者。ドラコーニブスとは切っても切れない関係。先の道程は決して楽なものではないでしょう。だけど、その前に一人の竜人ということを自覚してください。ドラコーニブスに縛られず、自分の人生を全うしてください」
ステラはアルティアとアルフェッカの頭を抱いて、自分の胸に寄せた。
「ああ、温かい。生きてるって感じがするわ。私の娘だから、何があっても大丈夫。うんうん」
「お母……様?」
アルフェッカが不思議そうに呟いた。
「アルフェッカ、アルティア……愛しています。ああ、もっともっとアルファルドを支えてあげたかったなぁ」
「お母様、私とアルティアがお父様を支えます」
「そう? なら、安心ね」
二人を離して、ステラは微笑みかける。
「立派に成長した姿、楽しみにしているわ……」
瞼がすぅっと落ちていく。
上半身は滑らかに脱力し、後ろに倒れた。
最後に、右腕が布団に落ちる。
息を呑む音がした。
アルフェッカは動かなくなった左手をきつく握って、呼び立てる。
「お母様! お母様!」
アルティアも倣って、一緒に母親を呼び起こした。
医者は咄嗟に右手を掴んで、脈を確認する。
そして、力なく首を横に振った。
それを見て、声を漏らさぬようにしていたシルマが会議室へと駆けていった。
アルファルドに伝えるために。
「お母様、お母様ー!」
愛する家族を失ったアルフェッカは、喉が壊れんばかりに泣き叫んだ。