ヒストリー ラオメイディア―5
宿舎の一階では、子供が一列となって縦に並んでいる。
列の先頭には、先生が椅子に座って、白衣を着た人間に注射針で腕を刺されていた。
薬液が体内に押し出され、針が抜かれると先生は立ち上がって「ありがとうございます」と呟いて、その場を離れた。
そして、次の子供に針が入れられる。
思わず、メデイアに質問をぶつけた。
「何が行われているんだ! 何かを、入れられているぞ」
「怖がらなくて大丈夫。あれは、ワクチンよ。外の世界では、病気が流行っているから、このワクチンで免疫をつくるんだって」
大人になって、外に出ても平気なようにとの心遣いだろうか。
この孤児院はつくづく、孤児の為に考えてくれている。
当時の自分は、若干恐怖を感じたものの、ウルヴも含め、子供たちが積極的に注射されているのだから、と俺も従う。
列に並んで、もうすぐ自分の番が来る時、荒い息をする音が耳に入ってきた。
左を見ると、苦しそうに胸を押さえている先生がいた。
声をかけようとしたが、先生は俺に気付いて、人差し指を口に当てて、「静かに」と訴えてきた。
前にいたメデイアが椅子から離れ、最後に自分だった。
得体の知れないものを体内に入れられるのかと思って、顔を俯けた。
「あなたがデザイア帝国で拾った孤児ね。ラオって名付けられたんだって?」
上から、女性の声がする。
俯けた顔を上げて、互いに見合った。
「ノイモコ……院長先生」
「今から、ワクチンを接種するの。そうすると、あなたが病気になることはなくなるの。そう、全ての病原菌に対する免疫をつけるのよ」
「痛く、ないのか」
どこかから、鼻で笑う音が聞こえた。
院長先生の側に立つ兵士からだ。
両手で銃を持っていた。
俺たちが狩りで使う木の銃ではない。
金属でできた銃身の長い武器。
その男は口を防具で覆っているため、表情は読み取れないが、笑っている。
兵士の感情が、自分の内に入ってきているようだった。
確実に笑っている。
先生が浮かべるような笑顔ではない。
人を虐めようと計画する時に漏れる笑顔だ。
じっとしている自分の腕に、院長先生が被せてきた。
細く滑らかな指が、俺の腕を掴んで、医者の前に持っていく。
「恐れることはないわ。激痛が一瞬、襲ってくるだけ。あなたなら耐えられるわ」
俺は本を読んでいる。
表紙には「心理学の極意」と大げさに誇張された字が書かれていた。
夜風が次のページをめくっていくため、手で押さえながら、縦に並ぶ字を追う。
横目で先生を見ると、手帳にペンを走らせていた。
「先生、何を書いているんだ?」
「日記です。君たちの成長を、ここに記しているんですよ。意外と楽しいですよ。君もやってみませんか」
「遠慮する」
「即答ですか。それと、ビッグウルフの狩猟……見事でしたね。槍の扱いも見事でした」
先生に無垢な瞳を向けられ、照れくさくなって、読んでいる本で自分の顔を隠した。
「……もう、褒めなくていい」
「もっと褒めたいですけどね。特に、あの槍の振り回し方。メデイア、そっくりでしたね」
「それは褒めているのか」
メデイアに似た扱い方、自分でも気が付いていない。
「ええ、褒めていますよ。昨日、君に課した宿題をちゃんとやっている証明ですから」
「ただ……メデイアを見て、真似しただけだ」
「そう、それですよ。君は人の技術を盗むのが上手いんです。観察眼がとても優れているのですね、ラオ君は」
「さあな、たまたまだろ」
こんなに褒められるとは思わなかった。
本で隠した顔を、そっぽ向ける。
「宿題を変更しましょう。明日から、他人の良いところを真似してください。いいですね?」
「あ、ああ」
「……夢は見つかりましたか?」
さっきまでの口調とは違い、いつも以上に穏やかに問いかけてきた。
「まだだ。昨日の今日で見つかるわけがない」
「そうですか。生きている内なら、いくらでも夢を見つけることができます。……本当は、もう見つけているのではありませんか?」
「うるさい。俺は本に集中する」
「年上に対する礼儀ではありませんね。ちゃんと言葉遣いも学ばないと。僕の真似をしてください」
「いやだ。断る」
「先生は、どこの国で生まれたんだ。グレアリングか?」
「唐突な質問ですね」
心理学の本を読み返しているとき、ふと気になった。
今思うと、先生のことをあまり知らない。
俺は少しでも謎を解きたかった。
「君も想像つかない遥か彼方の世界。僕は、転生してきました」
「転生? どういうことだ?」
「前世の記憶を持って、今を生きている……ということです。この世界は、前世とかなり異なりますね。まず、魔物がいません」
「魔物がいない!?」
そんな世界があるのか。
驚きのあまり、本を落としてしまった。
「ね、想像つかないでしょ。魔力もありませんから、スキルを使うこともできません。……はい、この話はお終い」
「もっと話してくれ」
「ダメですよ。どうしても知りたいなら、敬語で質問してください」
教えてください。
そう言おうと口を開いた瞬間、宿舎の方から絶叫が轟いてきた。
文字にできないほどの声が、脳を刺激する。
突然、椅子が勢いよく倒れる音を耳にした。
「う、う……」
顔色を悪くし、汗が噴き出ている。
先生は胸を押さえて、膝から崩れ落ちた。
肩を大きく動かして、息をしている。
すぐに駆け寄って、先生の体を支えた。
「先生! どうしたんだ!」
「僕のことは、いいですから……皆さんのもとへ。皆さんをよろしく頼みます……」
力強く突き飛ばされて、尻餅をついてしまう。
膝立ちの状態で動かなくなった先生を置いて、宿舎に走った。
先生は本気で頼んだんだ。
ここでじっとしているわけにはいかない。
それに、メデイアやウルヴが心配だ。
絶叫も一人だけではない。
複数で、泣き叫んでいる。
自分たちの寝室へ駆け込むと、ベッドから転げ落ちて暴れている皆がいた。
毛布を抱きしめて、人とは思えない声を発している者。
床を繰り返し繰り返し叩き、泣き叫ぶ者。
阿鼻叫喚の光景である。
メデイアの姿を確認し、彼女のもとへ駆け寄ろうとするも、声を荒げて暴れていた。
「どうしたんだ! メデイア!」
掻き払う腕を力づくで押さえて、行動を止めさせようとするも、あまりの勢いで突き飛ばされてしまった。
まったく近づけない。
メデイアが、メデイアとは思えない状態だ。
何かに憑りつかれたのか。
部屋の隅で暴れる者は一際、目立っていた。
外の景色を一望できるガラスの窓を叩き割ろうとしているのだ。
しかも叩き割ろうとしているのは、ドワーフの少年だ。
腕力がないドワーフなら、何とかできるかもしれない。
そう思って行動した途中で、急に彼の動きが鈍くなった。
そして、後ろに倒れていく。
彼が倒れる寸前に抱きかかえ、揺すって状態を尋ねた。
「大丈夫か! しっかりしろ! 痛むのか!」
返事はない。
揺すっても揺すっても、返事はない。
彼が周りと違っていたのは、暴れていない点だ。
さっきまでガラスを叩いていないのに、今はまったく動かない。
少し移動したことによって、窓から差し込む月の光が、彼の顔を正確にした。
「うわっ!?」
驚いて、彼を手放した。
白目をむいて、気絶しているようだ。
それだけじゃない。
口から血を吐いている。
はやく、助けを呼びに行かないと。
院長先生に。
宿舎から森へ出る扉の反対側に、もう一つ無機質な扉があったのを思い出す。
院長先生は、あの先にいる。
そう考えている間にも、震える脚で寝室から出ようとしていた。
姿勢正しく歩くこともままならず、何かにつまづいてしまう。
後ろを振り返ると、ウルヴの胴体だった。
こいつも気絶しているらしい。
と、ここであることに気付く。
全員が静かになっていた。
側で倒れている女の子は、呼吸と共に口から泡を吹いていた。
見ていられなくなり、顔を背けて、再び出口を目指す。
這って、ようやく寝室を飛び出した時に、無機質な扉が横にスライドした。
「院長先生……」
「……あなたは何ともないの?」
這っている自分の顎を、院長先生に持ち上げられる。
夕食後に見た院長先生とは、服が異なっていた。
今は白衣を着用している。
それにしても、さっきの質問に違和感を覚える。
とにかく自分の腕に力を振り絞って、寝室を指で示した。
「とにかく、皆の様子がおかしいんだ。特に、奥に倒れてるドワーフが吐血している!」
「落ち着きなさい、ラオ」
急に意識が遠のいていく。
院長先生が、何かスキルを発動させたのか。
閉じゆく瞼に抗い、狭くなった視野で現実を目にする。
扉から続々と防具で身を固めた兵士が登場し、寝室に向かった兵士は脱力したドワーフを抱えて、退出していく。
「ラオ、心配しなくても大丈夫よ。ここには医者がいるの。だから、眠りなさい」
「……何を、する気だ。いん、ちょう……」
「ローゼ! ローゼはいるかしら! 例外が現れたわ!」
院長先生の声が遠くなっていく。
手を伸ばしても、何も届かない。
兵士はどかどかと音を立てて、俺を持ち上げたところで意識が途切れた。