兄と妹と少女と異世界
「う……」
倒れていた香月が意識を取り戻す。まず最初に感じたのは、安堵であった。右手に伝わる温もりが、妹の無事を物語っていたからだ。続いて手を見て、足を見て、体を動かしてみる。
どこにも怪我はない。弥生を見ても、怪我らしきものは見えない。とりあえず安心した香月は、周囲に注意を向けた。
「どこだここは……?」
見知らぬ風景だ。草が生えていたり、木が見えたりすることから、屋外のようだ。二人を襲ったあの白い霧は見えない。香月はとりあえず妹を起こすことから始めた。
「おい、弥生。起きろ」
呼びかけても反応が無い。肩に手をかけて揺さぶってみたが。
「お茶漬け~」
寝ぼけた答えしか返ってこなかった。これが休日の朝だったりしたならば、まだその反応を楽しんでいられるが、事が事だけにそうも言っていられない。香月は強硬手段に出ることを決意した。
弥生の耳元へ顔を寄せる香月。そのまま、耳の中へと息を吹きかけた。傍から見れば危ない光景だが、幸いあたりに人影らしきものは無い。
「うきゃぁっ!?」
効果は抜群、弥生は素敵な悲鳴とともに一瞬で覚醒する。
「お兄ちゃん……?」
「おはよう、弥生」
寝起きの頭で今の状況を確認する。顔と顔が至近距離で接触危機。しかも片手を握られ、もう片方の手が肩に回されている。弥生はだんだんと状況を理解し、やがてみるみるその顔が真っ赤になっていく。そして。
「何するの変態!」
「うがぁっ!?」
先ほどの弥生と似たような悲鳴を香月も上げる羽目になってしまったのであった。
涙目になった弥生は、しかし顔を能面のように無表情にして、兄への尋問を開始する。香月にとって、ある意味何よりも恐ろしい状況だ。しかしその妹の姿に、香月は何か違和感を感じた。それはとても簡単で重要な違和感なのだったが、弥生の攻勢が始まってそれどころではなくなってしまった。
「もう少しマシな起こし方は無かったのかね、兄上殿?」
「ま、待て。今は非常事態だろ!」
「ほほぅ、言いたいことはそれだけかね?」
「いやいやいやいや、重要だろそこ!?」
「そうだね、兄上殿。だ・か・ら・ね――」
「や、やよいさん……?」
「チェストォー!」
「うぼぁぁーー!」
弥生の一撃が見事に兄へ決まった。
「痛ぇ……」
「まったく、自業自得だよ」
「ジゴウジトク……」
頬を押さえながら言う香月に、二人の声が返される。香月は少女たちを見ながら、ため息をついた。
「まったく。ここがどこなのかもわからんまま、余計な時間を食っちまったじゃないか」
「お兄ちゃんのせいでしょ?」
「オニイチャンのせい……」
「お前ら……」
香月ががっくりと肩を落とす。口では彼女らに敵いそうもなかった。
「ああ、そうだ。お兄ちゃんが全面的に悪い。だからもうこの話題はおしまいだ。いいな?」
「まあ、仕方ないか。許してあげよう、兄上殿」
「許す……」
「おう、許せ許せ。んで、だ。弥生、一つ聞いてもいいか?」
「何? 私にわかる範囲なら答えられるけど?」
小首を傾げて顎に指を当てる少女。香月はその少女を指差して、叫んだ。
「こいつは誰なんだ!?」
「わかんないよ!」
そう。先ほどから兄妹の会話に一人異分子が入り込んでいたのである。香月に指差された異分子こと、長い銀髪の少女は、可愛らしく小首を傾げたポーズのまま、やけに淡白で無感情な顔で二人の様子を見ている。
「なんかもう、違和感無く溶け込みすぎてて、突っ込むのが遅れたじゃないか!」
「私は今気付いたよ!」
大声で張り合う兄妹。妹の発言に、兄は本気でその感覚を心配するが、弥生にとってはいつものことだと割り切ることにした。
「とりあえず、だ」
頭を抱えたくなる気持ちをこらえて、香月は情報を整理しようと試みる。
「まず、何よりも優先すべきことは、だ」
「うんうん」
「ん……」
香月は銀髪の少女を再び指差して叫んだ。
「お前は誰だ!?」
「誰?」
指差された少女は、きょとんとした顔で後ろを振り返った。その様子に思わず弥生が噴出す。
「お前だ、お前。いったい君は誰なんだ?」
「………………わ、た……し?」
「そ・う・だ!」
ようやく言いたいことが通じた。香月は軽く勝利さえ覚えたが、さらにその先の質問事項へと思いを巡らせて、とたんに暗くなる。このやり取りがまだ当分続くのかと思うと、気苦労だけで疲れそうだ。
「なあ……?」
「うん?」
わ、た、し、とつぶやきながら考え込む少女を前に、香月は弥生へ小声で話しかけた。
「あいつ、どっかで見たことある気がするんだが、覚えはないか?」
「うーん、私も同じこと思ってたんだけどね」
「銀髪の、まあ見た目だけなら超絶美少女で、これだけボケボケの性格となると、忘れるほうがどうかしてるんだが――」
「銀髪、美少女、ねえ。あ、それって『霧の少女』じゃない?」
「はぁ? 『ネビュラ』はゲームの中のキャラクターだぞ? 現実に存在するわけが――」
「ネビュラ……!」
存在するわけが無い。そう言い切ろうとした香月の言葉は、最後まで発せられることはなかった。『ネビュラ』という単語に、銀髪の少女が反応したからである。
香月と弥生は話を止めて少女を見た。それまで無表情だった少女が、少しだけ目を見開いて、少しだけ頬を染めて、少しだけ身を乗り出していた。両手が慎ましやかに胸の前で握り締められているのは、もしかしたらガッツポーズだろうか。香月は本気で眩暈がしてくるのを感じた。
「よし、わかった。これから俺の質問に、YESなら右手を上げてくれ。NOなら左手を上げるんだ。いいか?」
「ん……」
ちょこん、と少女は右手を上げた。旗上げゲームかい、と突っ込む妹を無視して、香月が最も重大なことを聞く。
「お前は、『霧の少女:ネビュラ』か?」
「ん!」
ひょいっと元気良く上がる少女の右手を見て、香月はまず少女の顔へ視線を移し、その顔が嘘なんてこれっぽっちもついていなそうなのを確認すると、次に妹へと目をやり、木の根に腰掛けたまま驚きの表情を浮かべていることを認識し、最後に自分の顔を見るつもりで後ろを振り向いて誰もいない空間と対面し、盛大にボケをかましたことに気付いた。
つまりは、それほどまでに事態が香月の脳の情報処理能力を逸脱していたのである。
1人コントをしている兄をひとまず置いておいて、今度は弥生が『ネビュラ』らしき少女へと声をかけた。
「ねえ、ここはどこなの? 知ってたら教えてくれるかな?」
「……よくわからない」
申し訳なさそうに、左手を上げる『ネビュラ』。弥生はそれを見て少しだけ残念そうに笑った。
「そっか。しょうがないね」
「ごめん」
「うう、いいの。きっと、あなたのせいじゃ無いんだろうし」
言うと、弥生は香月へと言葉を向けた。
「これからどうしよっか、お兄ちゃん」
「うーん……。はっ――!? な、なんだって?」
「これからどうしよっか、お兄ちゃん?」
「あ、ああ、これから、な」
弥生の言葉が冷たさを帯びたことで、我に返る香月。それでようやく冷静になった彼は、ざっと周囲を見渡した。
「ここがどこなのかはひとまず置いとくとして、だ。少なくとも俺たちが意識を失う前にいた自宅のリビングでないことだけは確かだな」
「いきなり外だもんね。びっくりしたというか、これってやっぱり……」
「ああ、あの霧のせいだろうな。むしろそれしか思い当たる節は無いしな」
霧に巻かれたのは確かに自宅であった。それ以外に変わったことは記憶に無いので、十中八九あの白い霧が原因だろうと香月は推測した。
「催眠ガスか何かだったのかな? 誰かに眠らされて、拉致された、とか?」
「それだったら、こんな屋外で放置してはいかないだろう。こいつのことも説明できないし」
二人が『ネビュラ』を見る。銀髪の少女は、紫のワンピース状の服を着たまま、草に上に直接座り込んでいた。見つめられた少女は、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「まあ、誘拐犯にしては不思議ちゃんすぎるよね、この子」
弥生も納得したようだ。うんうんと頷くその姿に、先ほど感じた違和感の正体が判明した。
「そういえば弥生。お前服装が変わってるな」
「えっ? あ、ほんとだ。でもそれ言ったら、お兄ちゃんだって」
「うおっ、マジか? マジだ……」
二人して、自分の服装を確かめる兄弟。二人とも学校から帰ってきてすぐのため制服から着替えていなかったのだが、今は覚えの無いような、それでいてみたことがあるような、そんな気を起こさせる別の服を着ていた。
基本的には二人とも濃い緑の上下で、迷彩服に近い感じだ。香月は上下同色で下はややゆったりしたズボンに、上は長袖のTシャツのようなもの。何故かマントを羽織っている。弥生も下は同じようだが、上はノースリーブのシャツ状の服だった。こちらはマントではなく、コートである。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「これって見たことない?」
「見たこと、ある気がするんだよなあ。むしろどっかで絶対に見たことある。映画の中とか、アニメの中とか……」
「ゲームの中、とか……?」
「ゲームか……。ゲーム、ゲームねぇ……」
香月はしばらく考えていたが、やがて該当の記憶を探り当てた。
「サイドダークの、プレイヤーアバターか!」
「そうだ、そうだよ!」
「サイドダーク……?」
二人が同じ結論に達したのだ。間違いはないだろうと香月が結論付ける。しかし、何故服装が変わっているのか。何者が着替えさせたのか。そもそもこの場所がどこなのかの答えもわかっていない。ついでに言えば、二人のそばにいる最重要参考人も、期待できる情報は引き出せそうにない。
「謎だらけだ、まったく」
香月は、腕を組んで空を見上げた。太陽が、中天に差し掛かろうとしているのが、彼の視界に眩しく映りこんだ。先の見えない事態を暗示するかのように。
ようやくヒロイン登場。
このヒロイン、大丈夫なのかしら?