11 記憶をなくした人
・ある朝起きると、わたしには記憶がありませんでした。
わたしはすぐにパニックになりました。幸いなことに、自分は劣悪な環境にいるというわけではなく、学校の寮に住んでいるようでした。ルームメイトが不思議そうな顔をしながら教えてくれました。
わたしは人前では平静を装うとしましたが、(自分はもともとそういう性格だったようです)友人と話がまったくかみ合わず、すぐにバレてしまいました。わたしが記憶喪失を正直に告げると、ルームメイトは「わたし」の名前がメアリーだと教えてくれました。
わたしはひどく臆病になりました。自分を知っている人が声をかけてくれても……何も思い出せないのです。もともとのわたしはもっと元気な子だったらしいのですが、何かを思い出そうとしても、記憶の爆発のようなものが起こって気持ち悪くなってしまうのです。人は記憶の整理整とんを無意識で行っているようですが、わたしはそれが下手になってしまったようです。
どうやら、もともとのわたしは歌がうまく、学校の成績もとても良かったようです。しかし今は記憶がなくなり、簡単な算数すらわからなくなっていました。気持ちは少しずつ落ち着いてきましたが、不安はどんどん大きくなっていました。
・メアリーが記憶をなくしたみたい。それを聞いたとき、あたしは頭をハンマーで殴られたような衝撃をくらったわ。そのあと、心の底で「いける」って声がして、内臓に毒を流し込まれたような、恐ろしい気分になった。
こういうのもなんだけど、あの子は学校一の天才だったのよ。鈴のような歌声、コンテストではあの子がいつも優勝で、あたしが次席……そう、メアリーは私のライバルだったわけ。何度競っても勝てない相手。なんど恨んだことかしらね。そんな子が記憶をなくして、歌も歌えなくなったみたい。あの子には悪いけど、しょうがないわよね、なくなっちゃったものは。
でもね、あたしが彼女の部屋に行ったとき……案の定、メアリーはあたしのことを覚えてなかったわ。「ごめんなさい」って。で、それを聞いた瞬間、なぜかよくわからないけど、あたしは何も言えなくなっちゃったのよ。あんたあんなにいい声だったのにバカね、って言おうとしたのに、言葉が出てこなくて、唇を噛んだの。
そのときわかったわ。あたしもやっぱり悲しかったらしいのよ。あの天使のような歌声がなんでなくなっちゃったの、って。うらんだり喜んだり悲しんだり、忙しいわよね。でも本当なの。
あの子の前であたしが泣いたりしたら、あの子がよけい混乱するでしょ。でもね、泣いちゃったわ。あんたのことキライって言って、あたしは泣いたわ。
・俺はメアリーの恋人だ。いや、恋人だったというべきか。
彼女が記憶をなくしたと聞いたあと……俺はしばらく彼女に会えなかった。先生たちが「絶対安静」と言って会わせてくれなかったんだ。恋人なんつーややこしい関係の俺は、よけいにメアリーを混乱させるって言われてな。
いざ彼女と会ったとき、他人行儀で「レオさん」って呼ばれたときは驚いたなあ。前は呼び捨てだったのに、本当にやつはなにも覚えてないんだ。完全に初対面の対応で、なんかヘンに緊張したな。
俺たちは恋人同士だったんだよ、なんて言ったら、彼女は混乱するし、忘れてしまった罪の意識でメアリーはもっと悲しんでしまうかもしれない。俺は何を言えばいいかわからなかったんだけど……俺は思ったわけ。たしか俺たちが付き合って最初の頃も、メアリーはこんな感じで緊張してたんじゃないかってさ。つまり彼女はなにも変わってないんだ。俺のことは忘れても、彼女は変わってないと思うんだ。
だから正直な気持ちを言ったんだ。「忘れててもいいから、迷惑でなかったら、俺はキミを支えたい」って。すげー自分勝手だけどさ、言わなきゃ後悔すると思ったんだ。
これからまた、彼女は勉強を一から始めないといけない。俺はそれの力になりたいって思った。彼女はちょっと困った顔をしたけど、次の日からちょっとずつ話をしてくれたんだ。それってすんごい進歩だと思う。
よくよく考えりゃ、そんな重荷を背負わせるのはよくないのかもしれない。落ち込んでるやつには黙って寄り添っていなきゃいけないんだと思う。それが難しいんだよな。
本当は「記憶をなくした人」を3人書かないといけないのに。また今度。